映画日記、ただし日付はてきとう
渡邉建志

2006/8/1 
映画日記ということを聞いてぼくはびっくりした。AさんにはAさんの映画日記があり、BさんにはBさんの映画日記があるだろう。そこでぼくはこんなことを書いてみた。
もしあたしが映画日記を活字にして意味があるとすれば、あたしが愛しているものを書くべきであり、それは圧倒的にエリセとタルコフスキーとソクーロフとパラジャーノフとムラートワとカネフスキーとトラン・アン・ユンとソフィア・コッポラと佐々木昭一郎なわけであり、これ以上に、あたしがとくに書くべきことはない。基本的には、見た映画を私は貶してばっかり。トリュフォーもルノワールもゴダールもハリウッド映画も中国映画もわからないあるいは見たことないなんていうと、映画日記なんて載せていいのか。ほんといいのか。まあいっか。あたしはあたしの愛するものについてしか書けないのだし。とりあえずあたし以上にソクーロフ「マザー、サン」を連呼している人を見たことがないので、とりあえず十三回連呼しておくマザー、サン マザー、サン マザー、サン マザー、サン マザー、サン マザー、サン マザー、サン マザー、サン マザー、サン マザー、サン マザー、サン マザー、サン マザー、サン。世界の最果て。こう書くだけでもたぶん多少の意味はあるんだろう。
人には、人の映画日記があり、そこでの嗜好をテイストと呼ぶ。では、私の嗜好をお教えしよう。無意味な映画音楽が一瞬たりとも鳴らないこと。沈黙と暗闇が大切にされていること。ぼんやりしていること(みんないっしょに美しくぼけましょう)。

2006/8/8
有と無の間に境界がある。この世とあの世の間に教会がある。教会の空間は透明で白くて曖昧で、かつ凛としていて好きだ。私は有と無だけに注目したくない。その間について考えたい。数学についてはよくわからないが、それでもブラウアーのことを知ったときにはなぜか僕は興奮したのだった(内容は正確に把握していないにもかかわらず)。中学か高校で背理法を習ったとき、わたしはものすごく抵抗を感じたために。いや、わたしは二分法と排中律を混乱していただけなのだろうか。二分法には穴があるのは当たり前で。わたしが女でないことが証明されたからと言って、わたしが男であるとは限らない(わたしは無性かもしれない(もしそれがあるとすれば))。これは有名な二分法の罠に過ぎなくて(つまり全集合を二分割できると思ったことの誤り)、ブラウアーの言っていることとは関係がない。ブラウアーが言っているのは、わたしが女でないことが証明されたからと言って、わたしが男だとは証明されない、なぜならわたしがいないかもしれないから。わたしが幽霊ならどうするのか(彼の無限に関する命題における排中律の否定は、わたしの中ではこんなかたちで存在している、しかしいい加減なことを言っているのであまり信用しないで下さい)。
 わたしはその幽霊にこそ興味があるのだ。いろんな人がいろんな解釈をするとき、わたしがわたしの解釈をできることこそがわたしの存在意義のような気がする。CDのような演奏には興味はないし、テンプレートのような映画や物語にも興味はない。
 構成要素という言葉を考える。たとえば音楽において「音」は要素であって、「間/MA」は聞こえない、見えないものとしてある。要素が構成されるとき、構成されていない部分が間としてある。建材と建築物の関係のように。私が建築をみて感動するのは建材の構造よりはむしろどれだけの「空白」がデザインされているか、どれだけの部分が埋められて「いないか」、ということ、のような気がする。

 (音と沈黙/言葉と沈黙/映像と沈黙)

 沈黙にこそ、わたしが積極的にかかわっていける空間がある。演奏者がある音を鳴らすとき、わたしは受動的であるが、演奏者が意識してその音の「余韻」を聴くとき、あるいは音をとめて沈黙するとき、わたしはその余韻に参加している(させられている―ともいえる、が、演奏者がそれ―受け手の参加―を「意識」しているということが重要だ)。聴衆が沈黙に参加していると感じる。「能動的」に。
 わたしがハリウッドの映画を嫌うのはただその一点。鑑賞者の能動性の余地のなさ。
 命がけで作られた、極端なものを観たい。こちらも命がけで見なければならないような。目覚めても眠ってもいない、しかしまぎれもなく「私自身の」夢のようなものを。
 武満徹に「夢の縁へ/To the Edge of Dream」という美しい曲がある。「夢の縁へ」は、非常に映画的だ、と思う。映画的、ということを、境界のあいまいさというようなことを意味すると仮定する、ならば。あの、いい映画を観ているときの微笑むような恍惚の。武満は自分の映画エッセイの題名に「夢の引用」という言葉を選んだ。
 「映画は夢だ」。だとすると「夢の縁」は映画館だ。夢に入り、夢から覚める場所。この世とあの世の間の境界。
映画館こそ、わたしの「教会」である。

2006/5/5 アレクサンドル・ソクーロフ「マザー・サン」
天才、をもはやこえてしまった。世界の終わりを見た。本当の世界の果てを見た。凄い。(足りない。)凄まじい。
この時代、あれだけ映画は死んだと言われ続けながら、こんなにも真に本質的で同時に前衛的なものを撮ってしまえるなんて。あたしはどうすればいいのか。映画の後半、30分泣きつづけた。友人と見に行ったのに、終わってから駅まで、ぜんぜん話せなかった。山手線でも涙目で、しばらく呆然としていた、(追記: 今でさえ、「映画」という一般名詞のことを考えると頭のなかが「マザー、サン」という文字で1000回ぐらい埋まってしまう。あれは世界で一番美しい映画だとおもうし、あたしはその映画をもう見てしまった。だからもう、おしまいだ。完璧なものをみてしまった。自分の到達し得ない完璧をみてしまった。)
人生で一番好きな映画が、2つになった。ビクトル・エリセ「エル・スール」は何回も見たいけど、「マザー、サン」は何度も見たいとは思えない(なぜならこれは、「この世の果て」なのだから)。凄まじいとしか形容しようがない。誰かが言っていたけれど映画の前に言葉は無力だ。まさかソクーロフがこんなものをつくるようになるとは思わなかった。いつもどおり手法は前衛的かつ禁欲的なのに、同時に(!)分かりやすく圧倒的に美しい。
さて、これ以降のソクーロフを見ていると、どんどんカラフルになっていくし、どんどんわかりやすい感じになってきてしまって、なんだかまるでスクリャービンを逆回転しているみたい。スクリャービンのソナタ4番ぐらいの微妙さ(調性と非調性の間)が、「マザー、サン」とか「ロシアン・エレジー」の時代なのだろう。音の感性と実験性。それと大衆性が見事に同居している。同じ意味で凄まじい映画に「エル・スール」があって、この2つをあたしのベストワンにしたい。
これまで違和感を抱いてきたソクーロフの色の少なさや、歪みレンズの抑圧感や、意味不明だと思った長回しが、「マザー、サン」と「ロシアン・エレジー」では俄然、必然性をあたしの中で持ちはじめた。全ての細部が。切ないほどに。とくに「マザー、サン」はいちど感情移入してしまうと、延々、終わってしまうまで泣いてしまって、とくにラストは、完全に自失してしまっていた。金縛り。映画にこんなに動かされたのは、はじめてです。ただ、映画館で見ないとこの繊細な細部は伝わらないかもしれない。

2006/5/4 ソクーロフ「ロシアン・エレジー」
すごいっす、すごいっす、こんな映画みたことないっす。映画じゃない。これは写真だ。いや、写真じゃない。写真集だ。いや、写真集じゃない。やっぱり、これは映画だ。言葉を失いました。画面の歪みと焦点のぼやけのなかで、赤ちゃんが人形のように存在して、入ってくる音の圧倒的な生々しさ入ってくる音の圧倒的な生々しさ。圧倒的な生々しさ。音。

2006/5/13 佐々木昭一郎「四季・ユートピアノ」
95分間とは思えない息苦しさ、日本のドラマとは思えない自然さ、同じく素人を使うことで有名なロッセリーニとかブレッソンとは違って、ここに「監督」の存在を感じない。ただ一人の大学生、中尾幸世の「存在」ばかりが神性を帯びている。演技を超えている。そこにカメラなど無いように、超人的に、すっとそこにいる。ひたすら自然に、笑ったり、泣いたり、不気味に目を開いたり、歩いたり、ジョークを言ったり、はにかんだりしている。彼女のすべてが、自然に目の前にある。「撮られて」いない。超人的。

2005/8/14 ビクトル・エリセ「エル・スール」
奇跡の映画。父親の失踪の朝、暗闇で涙を流す少女の回想の映画。言語外でつながっている父娘の記録。父の閉じた孤独と、それをひしひしと感じる少女の、静かな物語。いちばん好きな映画。しかし、それは同時に、もう見たくないほど辛い映画。レストランでの父との会話のシーンは、孤独を嫌というほど味わわせる。主人公エストレリャの小さい時代の女の子がとてもかわいい。駄々をこねるようなときの顔がかわいい。眉毛やおでこがよく動いて、話している顔を見ているだけで飽きない。同じことが、思春期時代を演じるエストレリャにもいえて、こっちの彼女はあまりかわいいわけではないが、笑うとかわいい。で、なにがすごいかというと、なんとなく小さい時代の彼女と似ているのである。とくに、話し方の、なんかこう、額の動き方とか、唇の間に紙一枚挟んでいるみたいな微妙なはにかみとか。それにしても寡黙な映画。これほどに沈黙を美しく描いた映画がほかに存在しうるだろうか。これほどに暗闇を美しく描いた映画がほかに存在しうるだろうか。それに、グラナドスの「スペイン舞曲」の使い方はほんとうに素晴らしい。あの神のような南の写真シーン。ここで流れるのがスペイン舞曲5番「アンダルーサ」。夢を思い出させるようなゆっくりしたテンポ。おそらく世の中で一番遅いテンポの演奏。映像とあわせるためにエリセが演奏者に要求したとしか思えない。この遅さでは、最高性能のピアノでは音が立ちすぎて遅すぎると感じるだろう。エリセは、わざと音が厚く歪んだ縦型ピアノを使うことにより、見事に美しい音楽として成立させている。しかも、それだけでなく映像と音楽が美しく同期している。少女は南の写真を必死の視線で見て、行ったことのない南のイメージを膨らまそうとしている。それと現実の世界(寒い北スペイン)との激烈なギャップ。それが、グラナドスのホ長調とホ短調の移調に重なりあう。もう一度グラナドスのこの曲は映画の最後に現れるが、そこでの移調の含む意味も鋭い。それにしても繊細な要素でこの監督はすべてを語ってしまう。細かな手の動き。屋根裏部屋。交錯する視線。沈黙のなかで。

2005/7/2 水野晴郎「シベリア超特急5」 
これは凄い。最初の30分ほどは、うわー素人映画だ、演技も下手だし(主役二人がきつい)音楽もセンス悪いし、カメラも不安定な感じ、いやだいやだと思っていた。たちの悪いカルト映画だなあと思ってみていた、が、どっこい。すっとこどっこい。水野晴郎がやたら話すようになると、ひたすら面白い。上手い。上手すぎる。人は水野の棒読みを笑うのだが、この素人演技が実に「上手い」。やられました。演技の下手さを逆手にとって生かすだけの技量がある。というよりもはや彼は演技していない。普通に「自然に素人演技をやっている」(!)ふつう、こういう通らない主張しない演技や言葉は、ガヤのなかに埋もれるものだが、そこはきちんとうまく考えてあって、水野が話すときにはみんな黙り、彼の棒読みセリフがクリアに聞えるようになっている。そうするともうめちゃくちゃおもしろい。喩えるならば、真顔で面白いことを言うお笑い芸人が一番上手い、というのと同じ現象がここでおきている。芸達者な俳優(岡田真澄)が盛り上げておいて、表情レスかつ棒読みの水野で落とす。この面白さは、たぶんひとりでビデオを見ていては駄目で、ファンのたくさんいる映画館で存分に笑うのがいいとおもう。なにしろ普段天然ボケで売っているガッツ石松が、この映画では演技派に見えるのだからすごい。そして普段のガッツ石松の位置を水野晴郎が占めるのである。(水野晴郎は5作目にしてこの境地に達したと思う)
さらに、重要な場面で歌を歌う女の子がありえない音痴で、その音痴な歌を重要な場面のBGMに流し続ける展開には発狂するかと思った。確信犯的悪趣味。推理場面での水野の素人演技もすばらしいが、それよりもピストルで撃たれた人間に対して「大丈夫か」と棒読みで言ってのける水野のセリフまわしこそすばらしい。コップを倒していった外国人女性(日本語を解さない)に対し「気にするな」とやはり棒読みの日本語(!)で声を掛けるシーンも凄い。
しかし、なによりも凄まじいのが、セリフとセリフの間で「んーーーー」と感心して言っている声である。その間のとり方の間抜けさが堪らない。あと、ときどき出てくるミニチュアの汽車の走るシーンの安さ。推理のシーンのいい加減さ(なんの証拠も出さないのに犯人が自白していく)。そして最後のキメのシーン。もはや水野晴郎がかっこよく見えてきます、大俳優に見えてきます(本当です!)。いや、参りました。すごい。歌舞伎的。とにかくキルビルを見て笑えた人にはこれは圧倒的にお勧め。キルビルの様式美の倍ぐらいの様式美の勢いがある。だけど一人で見るのは絶対お勧めしない。友達と馬鹿笑いしながら見るがお勧め。


散文(批評随筆小説等) 映画日記、ただし日付はてきとう Copyright 渡邉建志 2007-10-16 23:06:46
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