幸福の外皮


パイ皮につつまれた子羊の肉がある。

ぱりぱりとしたその外皮と一緒に切り崩され、
皿に敷かれた甘く濃いピノノワールのソースへこてんぱんに塗り付けられ、
ゆっくりと口に運ばれることを運命付けられた肉が、この世界にはある。

その運命を享受出来る者は幸せだ。
何故なら、「幸せ」が、
今自分が向かっているテーブルの、
その上に置かれた皿の、
その上に盛られた肉の、
まるで暴力と同義的すぎるほどの芳香を放つ肉の一片に凝縮されていると、
当の肉片を噛み、噛み、噛み、陶然とし、半ば勃起し、
飲み下す。
その後に到来する「次の一片を」を渇望することのみに集中し、
その度を越した集中によって、自らの外にたゆたう世界をスムーズにシャットダウンできるからだ。

どれだけ自分が醜怪であろうとも、
開ける口、舐める舌、噛む歯、飲み下す喉。
そうして、そのすべてを受け入れる、天上の肉片。

それさえあれば、世界はたったひとつの皿の上に凝集される。
それさえあれば、醜怪さは圧倒的で単純な「幸せ」に、
あっという間に駆逐されていく。

満ちた腹をさすり、
天上の名残を思い返すうちに、
自らを呪う自らの醜さは延々とその鎌首をもたげ始める。
それは「それ/その」という指示代名詞をここまでの短い行数の間に8度も重複してしまうことに裏付けられるほど、傲然とした鎌首を屹立させている。

皿の上に、
ぬぐい残されたピノノワールがある。
それをバゲットでぬぐい、口に運ぶ。

ブリヤ・サヴァランの言質を引けば、
「この世界のあらゆる楽しみを増幅させるものが食事だ。


 そうして、この世界のあらゆる楽しみが消え去った後、
 唯一心を慰めるもの。それが食事だ」
という言葉がある。

ああ神様。
今夜の子羊の肉は、今夜のパンは、今夜のソースは、あまりにおいしい。
おいしすぎて、自分の醜さを忘れてしまうほどだ。
慰められるべき心自体を、忘れてしまうほどだ。

ブリヤ・サヴァランの言質の間には、
きっとひとつの、省略された空隙がある。
それは多分、

「楽しみは残骸と化し、心身は砕けきっている。」

という一文ではないだろうか。

それはちょうど、この目の前の、パイ皮そのもののように。

肉に、パンに、ソースに食事手が耽溺した後、
皿の上で忘れ去られている砕けたパイ皮の残骸のように。

心が砕け、体が疲れた後にだけ享受できる幸せがある。

それは大抵、ひとつのテーブルの、
その上に置かれたひとつの皿の、
その上に盛られたひとつの料理に顕現する。

そうして、その幸せには必ず、
食べ残されたパイ皮が、無残に砕け残っているのだ。





自由詩 幸福の外皮 Copyright  2007-10-14 22:40:00
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