詩が出来るまで、あるいは出来なかった顛末
クリ

さて、僕が詩を書くときは、何度も推敲を重ねるような書き方はしません。
他の詩人さんと共作をするときは、「推敲」が不可欠ですが、一人で書くときは「一発どり」に近いです。
僕のサイトにある「カエルトコ」のようななが〜い連作詩でも、延べ時間にしたら数時間です。
多くの詩は数十分で書き上げますし、ほとんどは15分くらいで書きます。
「天才か」というと、もちろん天才じゃないです。段取りに長けているだけです。
あとはキャリア(文学と文章と人生!)ゆえのストックです。コツさえ把握したら誰でも書けます。
それにはいっぱい読まなければなりませんが…。

詩の元は、あるコンプレックスです。「劣等感」という意味のそれではなく、「心象の複合体」というような意味の。
それは短い叙述でメモできることもありますが、言葉にならないことのほうが多いです。
忘れそうなときは、自分だけに分かるような一文で記録しておきます。最近は携帯のメモに書いておきます。
たとえば今メモされているのは、
  「天使の忘れ物」
というひとことです。今はこれしか文字にできないのですが、近いうちに作品になるはずです。
あるいは僕のサイトの『一行短詩』というコーナーに書き込んでおきます。一行短詩が元になった詩はたくさんあります。

さて、僕は「天使の忘れ物」についての詩を書きたいことは分かっていますが、どのように書いたらいいかはまだ分かりません。
では無理やり書き始めるかというと、そんなことはしません。
「熟すまで待つ」のです。
「芸術排泄物論」を疎んじる人や、詭弁とみる方が多いことは知っています。
しかし僕個人の場合、創作手法まで、詩はウンコそのものです。
最近はウンコそのままを提示して、これまたそれを好む同病者たちの中だけの連帯感があるようですが、僕にはこどもとしか感じられません。
人様にお見せするウンコは、とても美しくなければならない、という固定観念(?)があります。その方が読んでくれる人多いだろうし。
世界一素敵なウンコを生み出そうと苦労します。それが芸術だと信じています。
ウンコは、出たいときが出どきではありません。一丁前の大便になったときが出産のときなのです。
未消化の思い、固くなりすぎた思いは、芸術ではないと思っています。
だから、もうこれ以上我慢できない、漏れそうだっ、と確信したときに書き始めます。
僕の場合は「手書き」です。紙に鉛筆です。いきなりキーボードも一割ほどありますが、そういうのは「浅い」詩が多いようです。
こういうときに書き始めると、何を書きたいのか曖昧でも、手が動いてくれます。
それは、コンプレックス自身が出たがっているからだと思います。
彼は、言葉やイメージ、メロディーのようなものを利用しなければ、この世には具現化しえないのです。
人間はまだ、それに適した手段を発明していないからです。
もっともそのようなガジェットが完成されたら、詩は過去のものとなるかも知れませんが…。
「コンプレックス君」はなんとか人間にコミュニケートできる手段を模索します。
そのとき僕は、彼を解放します。それが草稿です。言葉になり切れないときは記号や暗号にもします。
そして一度だけ、キーボードを使って推敲/清書します。二度三度重ねると核心が失われます。

さて(さて、は三度目のはず)、今、実は一度書き始めて挫折したものがあります。
それをOpen Writing していこうと決めました。それは、
「新しい作詩手法が身に付けられればラッキー」という理由です。

次は、元ネタ、書きます。
poeniqueの"Open Writing"に投稿したものを一部修正、一箇所削除




                                        Kuri, Kipple : 2004.06.06


散文(批評随筆小説等) 詩が出来るまで、あるいは出来なかった顛末 Copyright クリ 2004-06-06 02:09:17
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