独白
風見鶏
自由詩を書くに当たって一番初めに驚くことは自分の中の語彙の無さにだが、それ以上に驚く事がいくら思考を張り巡らせても今記すべき題材が見つからない事だ。これでも自分は趣味の範囲でだが創作活動にも手を出しているし、自分なりにいわゆる文学的技法に対する拘りのようなものは持っているつもりだ。そんななかで題材に困るという事はすなわち、自分の人生がいかに薄っぺらく起伏の無いものであるかを物語っているのだが、では近年詩人や文学人を自称する多くの人々の全てが本当の意味で自らの感情(或いは感性)に対して文学的なアプローチを試みているのかと言われれば、それははなはだ疑問に思う所だ。
例えば自分が花の美しさや宝石の輝き等を題材にある種の散文を記したところで、万葉集等に記されるような偉大なる歌人や、何かの生態や慣習に基づいてそこに意味合いを求めた某言葉を生み出した人々の感性には遠く及ばないだろうし、そもそも日々の生活に追われている現代人の我々には自身の中の微細な感情の起伏に耳を傾けるのもままならない事なのかもしれない。
では、そんななかで現代詩に何を見いだすべきかと問われても、残念ながらそれに対する答えを用意するだけの器量を自分は持ち得ない。古きを鑑みて偉大なる先人の持ちえた感性に一歩でも近づこうとするのも良いだろうし、雑多とした生活の中に見いだすほんの少しの潤いだとしても構わないだろう。
文学人を気取ってみたところで文学を学問足らしめる根拠など何も無いし、しょせんそれは言葉遊びの延長線上にあるに過ぎない。偶然にもこのような奇特な嗜好を持ちえた我々にとって現代詩というものは余りにも懐が深く、それ故に自分のような愚かな自称文学人を悩ませるのかもしれない。