虹と観覧車(短編)
宮市菜央
目覚めるとわたしは知らない部屋に寝ていた。隣には浅黒く日焼けした知らない中年の男がいた。男はまだ眠ったままだ。
昨夜の記憶は何ひとつない。頭が今にもはじけそうなほど激しく疼いている。
天井も壁も白で統一されたその部屋は徹底的にシンプルな内装で、広い割には家具が異様に少なく、中央に置かれた円いサイドテーブルが孤島のように浮いていた。ガラス製の天板の上にはグラス二つとアイスペールが残っていて、中の氷を融かしながらまとわりついた水滴を膨らませている。隣り合う水滴が融け合い、膨らみ、融け合い、膨らみ、筋となって天板へと滑り落ちていく。室内のたっぷりと湿気を含んだ暑さで、わたしの胸元にもたっぷりと汗が滴になってまとわりついていた。仰向けの状態でしばらくじっとしていると、胸から脇腹へと一筋、汗が滑り落ちた。肌を滑っていく汗の筋の感触。わたしは昨夜の男のなまめかしい指の動きを思い出した。わたしの肌の上をゆっくりと蠢く男の指の動きは汗の滴が滑り落ちるのに似ていた。
わたしは男を起こさないように注意しながら、ベッドから出た。ブラウスを床から拾い上げて引っ掛け、窓の外を見た。空も白い。窓に近付いて目を凝らしてみたが、雨の粒は見えない。
いったいここはどこなのだろう、ヒントを探そうとして私は窓から見えるものを一つ一つ丁寧にたどっていった。はるか下に観覧車が見える。観覧車は赤一色で塗りつぶされていて、白い空から赤い物体が浮かび上がる様はまるで何かが燃えているようだ。
そろそろ身支度を整えようとわたしは窓から顔を離して背を向けた。その瞬間、強烈な何かがわたしを襲った。ほんの一瞬、足元から頭の先へと電流のような痺れが駆け上がって、わたしは反射的に窓へと視線を戻した。窓の外では、雲の隙間から一筋の光が射し込み、それまで空を覆いつくしていた雲が信じられない速さで流れ去り、そこに巨大な二重の虹が現れた。それらがあまりにもすさまじいスピードで次々に起こったので、わたしはしばらく呆然となった。
「何を見てるんだ?」
唐突に背後から男の声がして、わたしは自分を取り戻した。「起きてたの?今の見てなかった?」「いや。何だ」「虹よ。虹が二重に掛かっているの」ふうん、と男は返しただけで、虹を見にベッドから出て来ようとはしなかった。
「ねえ、虹の両端に宝物が埋まっているって小さい頃聞かされなかった?あなた、探しに行ったことはない?」
「ないな」今まで全く気付かなかったが、部屋は男の煙草の匂いで充満していた。
「今、そこから虹の端は見えるのか?」
ライターのカチッと点る音と同時に男が訊いてきた。
「一箇所だけ見えるわ」
「そこには何がある?」
「観覧車。燃えてるみたいに赤いのよ」
それからわたしは、突き刺さった虹の中で燃えあがる観覧車を眺めていた。部屋は強烈な真夏の日差しでさらに暑さを増し、時々、カチッと男が点すライターの音と、わたしの胸を滑り落ちる汗の筋の感触が時間の経過をわたしに伝えてくる、けれど観覧車の真っ赤な火は、はるか下で陽炎のように揺れて、いつまでも果てしなく燃え続けている…………