女といふもの
亜樹
金子みすゞの詩を読んで、女性的な優しさを感じるという人がいる。
私は、そんな人間の気がしれない。彼女の詩のどこにそんな要素があるとかと、問い詰めたくなる。一般にみすゞの代表作とされている「わたしと小鳥と鈴と」(私個人の感想としてはこの詩をみすゞの代表作としてあげるにはいささか役不足であるように感じるが、そのことについて今回は述べない)が、良人に詩作を禁じられた後、彼女がひっそりと日記に書き付けた詩であることをその人は知っているのだろうか。「出来ること」ではなく「出来ないこと」を挙げ連ね、「みんなちがって/みんないい」といったみすゞに私が見るのは、どうしようもない諦めである。追い詰められ、逃げ場を失ったものの、諦念である。
「女性的な優しさ」とは一体なんであろうか。私にはわからない。私が今までに詩を読み、ああ、これは女性だ、と感じたことのある詩人は石垣りんだけである。彼女の「崖」という詩を読んだとき、私は作者の名を見ることもなく、これは女だと思った。これほどまでに美しく、潔い怒りは、女でしか持ち得ないと素直に思った。その後詩集を買い求め、巻末の解説で彼女が「鬼」と呼ばれることを知った。古典の世界において、鬼に変ずるのは女だ。怒りにおいて、悲しみにおいて、壮絶な変化を有するのは女だけだ。そう思うと、なるほど相応しいように感じた。
これらのことから、私が考えるに「女性的な」という形容動詞が相応しいのは「優しさ」ではない。追い詰められたものの、そうなるを得なかったものの「諦め」であり「怒り」であり、それ以外の激しい何かだと思う。「優しさ」という、輪郭さえも定かでない曖昧模糊としたものではあるまいと思う。
女というものが優しいものであることを強制される時代はとうに過ぎた。けれども、詩の世界ではその傾向は未だ現役であるように感ずられる。それは、みすゞの、また多くの女流詩人の魅力を押さえ込む重たい枷であるように、私には思えてならない。