下宿の上階。
ヴィリウ
下宿の上階に女郎が住んでゐた。
座敷に出てゐる時の女がどのやうな格好をしてゐるかは知らなかつたが、開け放した窓から上体を乗り出した姿は馴染みのものだつた。
案外に短い髪は肩で踊り、着崩した着物は藍染めのかすり。
爪紅を注した指が握るは舶来ものの煙管。
高価さうな物だ。
朝の眩しい陽光の中、厭に絵に成る其の様に、大學へ向かふ足をしばしば止めたものだつた。
ある日女郎の許へ男が来た。
洋装をすらと着こなした上流の紳士だつた。
こんな安下宿に珍しいものだと思つてゐると、不意に争ふ声が聞こゑて来た。怪しい雲行きだと足早に大學へ向かつた。
夕暮れに成り、黄昏も青黒く沈む頃、女郎は未だ下宿に居た。だう云ふ訳か、おれの戸の前に座り込んでゐた。
もし、おぢゃうさん。
声を掛けたが返事が無い。
お仕事は宜しいんで?
肩を揺すつたが身じろぎもしない。
兎に角中へ這入りなさい。
やうやう立たせて戸を開けた。
女郎は左の頬を赤くしてゐた。
手拭ひを濡らして、其の頬に押し当てた。
僅かに彼女は上向き、手拭ひを当てたおれの右手に、自分の左手を重ねた。其のまゝ右手でおれの首の付け根を摑むと、接吻した。
軽く音を立てておれの口を吸うと、に、と笑つた。
おやおや兄さん随分初心だね。
硬直したおれにさう云つた。
流石に男を買ふ趣味は無かつたやうだね。
一寸掠れた声は男のものだつた。
あンたが直ぐ家に上げて呉れたもんだから、慣れてゐるのかと思つちまつたんだよ。悪かつたね、兄さん。
よくよく見れば、喉元が隆起してゐた。
男なのか。
搾り出すやうに云へば、さも愉快と弾けた笑ひ声。
兄さん、あのひとはおれの兄貴でね、
丸の内のお堅い勤め人さ。
うん?さう、御役人さ。
弟がこんな暮らしをしてるのが、相当腹に据え兼ねるらしい。今日も仕立ての背広を持つて来たんだよ。御前も真つ当に働けつてさ。
マァ、おれには関係無いやね、妾腹の子だからね、
さう云つたら此処にほら、好いの入れて行きやあがつた。
でもサ殴られた甲斐があつたよ、
兄さんと御近づきに成れたんだからね。万事塞翁が馬、て事さね。
ねえ、兄さん、
今すぐ放り出したりしないだらう?
上階の女郎は陰間だつたらしい。
だうりで、男と同じ下宿等に住んでゐる訳だ。
今日も開け放した窓から上体を投げ出し、物憂く煙管を吹き上げてゐる。
ちらと目線を呉れてやれば、朝日を背に強烈な流し目。
紅を落とす前の唇が、くいと上がつて笑む。
行つてらつしやい、兄さん。
声無く口が動いて、ひらりと手が舞ふ。
行つて来る。
上階の陰間とは深い仲に成る気は無い。
無いが、
このやうな遣り取りが続いてゐる。