文体について、経験について
んなこたーない
* 文体について
文体といっても、たとえば仕事のメールならば、誰が書いてもおよそ同じものになる。
ビジネスの場では、ぼくらは常に非人格的な振る舞いを要求されているからだ。
しかし、マニュアル化されない領域においては、ひとりひとりの顔が違うように、
やはりひとりひとり異なる文体を持っている、と考えることができる。
それはまた、ひとの顔と同じく、ひとりひとり好みは違うが、
美と醜については一般に大まかな了承がある。
文学、特に詩は文体が最も幅を利かせる分野である。
文芸作品を前にしたとき、その文体に軽く触れるだけで、およその良し悪しの判別がつく。
ページを開いて、チラと目に入っただけで、読むか読まないか判断することができるのである。
ある意味では、読む以前にすでに読み終わっているとさえいえる。
先の話を敷衍すれば、ビジネス文書では、何を読み飛ばし何を熟読すべきか、文体で判断することはできない。
文学におけるエピゴーネンは、なによりも文体のエピゴーネンであり、
言ってしまえば、思想などはどうでもいい。
そもそも、ひとの考えることなどにそう大差あるわけなく、
いかに言葉に綾をなすかが最重要課題になるわけである。
ひとを容姿だけで判断するのが不謹慎なように、
これもまたけっして褒められたものではないが、表面がいかに重要であるかは
誰だって実生活の経験で痛いほど知らされている。
偏見、というとネガティブにとられがちだが、そうとばかりも言えないのではないか。
なによりもそれは経済的である。時間の節約に大いに役立つ。
ぼくは偏見を捨てることにたいして情熱的にはなれない。
天声人語を本気で名文だと思っているひとがどれだけいるだろう?
「草枕」を注釈なしで読みこなせるひとがどれだけいるだろう?
どうしたら、自分自身が満足のできる文章を書くことができるだろう?
文章読本の類では、簡潔をよしとする主張が主流を占めているようだ。
しかし、その点に関しては、迂遠な言い回しでしか表現できないものもある、と擁護することも可能である。
文体と内容は不可分であるのだから、簡潔さだけではそれ相応の内容だけしか伝えられない、と。
ぼくは、聖書は文語訳の方が断然にいいと思うが、
口語訳では中身の価値が下がってしまうとなれば、これは由々しき問題である。
たしか西脇順三郎は「悪文の美学」というようなことを述べていたはずで、
実際、西脇の詩にしろ散文にしろ、妙に歪んでいる。
同様に、西脇の語るシュルレアリスムも芭蕉も老荘思想も、妙に歪んでいる。
「悪文の美学」といえば、川端康成も同種であるように思う。
ぼくが一時期に気になった語法に、たとえば「○○−○○」「○○=○○」とかいったものがある。
手頃なサンプルを引用するだけの暇がないのだが、フランスの衒学的抽象哲学の類を連想すれば、
ひとによっては思い当たる節があるかもしれない。
ぼくは原文が読めないので、どういう翻訳の経緯を経ているのかよく分からないが、
日本語としては意味が不明なものも少なくない。それがまた衒学さに輪をかけている。
ところで、現代詩のなかには、こういった語法を取り入れているものも少なくない。
思えば、昔の文学者も哲学書を読まなかったわけではないだろうが、
その翻訳文の調子を自分の作品に利用することはなかった。
たとえばプロレタリア作家が、マルクスの日本語訳の文体に影響を受けていただろうか?
哲学が文学化したとみるべきか、あるいは、文学が哲学化しているとみるべきだろうか。
おそらく正解は、互いの境界線が曖昧になり、
固有の領域を確保できなくなってきているというところだろう。
ぼくのような一般人には、もとより専門的な読みはハナから不可能なわけで、
そういう場合、ぼくは迷わず解説書のたぐいを手に取る。
しかし、どれとは言わないが、こういった分野の解説書のなかには、
妙に文体が文学しているものがあって、辟易されることが度々ある。
解説書が文学する、というのは、よくよく考えてみると、かなり異常な事態である。
抽象的な文体を持った作家は、ほとんど常に感傷的である、
そうでなくとも、少なくとも感覚的である。芸術的な作家が
感傷的なことはまず絶対ないし、感覚的なことも大変稀である。
これはグウルモン(誰?)「文体の問題」の一節で、TSエリオットが引用している。
傾聴に値する意見だと思う。
ぼくの好みの文体を持つひとは誰だろう? 考えてみると、特に入れ込んだひとはいない気がする。
かろうじて芥川龍之介や小笠原豊樹の名前が思い浮かぶが、
はて、かれらはどんな文体だっただろう? 思い出すことができないのである。
詩では堀川正美や伊藤聚、といえば知っているひとには何となく理解してもらえると思うが、
ああいう感じにつよく惹かれたことがある。いまではもう完全につきものは落ちてしまったが。
どんな流暢に言葉を書き連ねたとしても、自分の意図したものと必ずどこかで齟齬をきたしてしまう。
それが言語形式の限界といえばそれまでだが、はじめにロゴスありき、
表現以前になんらかの観念が存在するということ自体が幻想であるのかもしれない。
ぼくはひとの顔を覚えるのが苦手だし、じつはあまり気にもしない。
ひとの心を最もふるわせるものは、やはりひとの心である。
さっきは「表面がいかに重要」か、などと書いたが、実際にはぼくの興味はもっと奥深いところにある。
つまり、詩でも最終的にはそこにどんな思想が盛り込まれているのかが肝心になるのである。
容姿の第一印象である程度ふるいにかける。
しかし、本当に惹きこまれていゆくかどうかは、やはりそのひとの、あるいはその作品の中身による。
この不徹底な態度のせいで、今までいったいいくつの運命的な出会いを逃してきたのかを考えてみると、
切歯扼腕、ぼくはひどくgloomyである。
* 経験について
そのひとがそのひとらしくあるためには、経験を大切にしなければならない。
経済効率最優先の時代にあって、いかに人間が画一化、規格化されようとも、
凡庸な人生などありえない。あらゆる人生は比類の無いものである。
たとえば、昨日と今日のあいだに、ぼくの身に起きた、あるいはぼくが考えた、以下の事柄と
全く同一の昨日と今日を過ごしたひとがいるのなら、率直に名乗り出てきてほしい。
間違いなく、これらはぼくただひとりのものである。
イギリスに旅立つYを空港まで見送りに行く。
美術の勉強をするとかなんとか、とにかく日本に戻ってくる気はさらさらないらしい。
ところで、いきなり知人から「今度イギリスに行くんだ」と告げられたら、
あなたはどんな反応を示すだろうか?
これはまた、イギリスについての情報量の多寡が問われる場面でもある。
ぼくの場合はこうだ。
「今度イギリスに行くんだ」
「へえ。それって何県?」
友人の妹と電話で話す。
向こうの声が徐々に涙声に変わってくる。
電話越しに泣かれるのは、非常に困るものである。
もしも神が慈悲深くも、ぼくに今以上の勇気と決断力を与えていてくれたのなら、
ぼくも慈悲深く、問答無用で電話を切るのだが。
「KY」が「空気読めない」の略であることくらい、ぼくも知っている。
仕事先のバイトの娘に聞いたところ、
「PK」というのもあって、それは「パンツ食い込んでいる」の略であるそうだ。
いまの若い娘たちは、そんなにサイズの合わないパンツばかり与えられているのだろうか?
もし本当にそうであるならば、それは一種の虐待ではないのだろうか?
勝手にしやがれ。ぼくはぼくよりも若いひと全員がうらめしい。
もしもあなたが何か楽器を弾けたとする。そして、偶然にも手元にその当の楽器があるとする。
きっと誰かが、あなたに「何か弾いて」と要求してくるだろう。
そのとき、あなたは一体何を弾くだろうか? それともその要求自体を拒絶するだろうか?
もしも何かを弾くならば、軽くつま弾く程度のもので、あまり込み入っていないものを選ぶ方がいい。
また、その楽器だけで完結しているものがいい。
たとえば、JBの「Sex Machine」のギターカッティングだけを聞かされて、本気で喜ぶひとがこの世にどれ位いるだろう?
また、止め際も重要である。何十分も聞かされる方の身にもなってみよう。
ぼくは、ギターならばWes Montgomeryが「Full House」で取りあげた
「I've Grown Accustomed to Her Face」、ピアノならば「別れのワルツ」の、
共にサワリの部分を弾くだろう。
「I've Grown Accustomed to Her Face」を聞いたUの反応。
「……、上手いですね」
もしもひとに「何か弾いて」と注文するなら、気の利いたコメントのひとつやふたつ、
前もって用意しておくべきである。
ぼくはこの人生、すなわちこの二十数年のあいだ、一体なにをしてきたのだろう?
いっこうにマスターできないことが、あまりに多すぎる。
二十数年といえば、職人ならすでに独り立ちを始めていてもおかしくない。
ぼくのどこかに何か欠陥でもあるのではないか。本気でそう疑いたくもなる。
そして、今日ぼくは新たにひとつ気づいてしまった。――上の前歯の裏側を、上手く磨けたことがない。