ダンスと同性愛発生の仮説
ケンディ

バレエは美しいダンスだ。バレエなどのダンスにおける美しさはどこから来るのか。
ダンスは性器中心主義的だ。ダンスにおいて、身体は性器/非‐性器の差異である。ダンスする身体は性器/非‐性器の差異として機能を果たしている。その差異が織りなす色合いの変動(隠蔽的な反エロティシズム、象徴的な間接エロティシズム、ドラスティックな直接エロティシズム間の予想外/予想通りの推移)に美が宿っている。性器/非‐性器の差異が持っている複雑性の変動。性器を中心にして性器以外の身体がぐるぐると回る。軌跡が描かれる。性器という定数と非‐性器という独立変数から成る軌跡が描かれる。この関数の複雑性に美がある。つまり独立変数が大量に導入されて定数、法則性が把握しづらくなったり、逆に変数が取り除かれて、急に性的になったりする。性器と性器との関係は同一性を再生産する。それに対してダンスは、性器と非‐性器とが(時に複雑に、時に単純に)戯れることで生き生きとした差異を再生産する。性器と非‐性器の差異の戯れ。
美は性的なものとそれを取り巻く非‐性的なものとの差異の色合いの変動によって再生産されうる。その延長線上で言えば、反エロティシズムとしての、プラトニックな同性愛は理性的思考活動の果実である。純粋な美の観念を理性的思考活動は作り上げる。そして完全な美として想定された、美の理念(イデア)が生まれる。同性愛は美のイデアが何かの拍子で変形したもの(ヴァリアント)ではないか。思考の構造という観点から言えば、超越論的認識のヴァリアントとして、同性愛という形式が発生したと推測される。
ここでビンスワンガーの鬱病分析に立ち寄っておく。彼は超越論的論理学の観点から鬱病を分析している。彼は鬱病を「自然的経験の構成的結合からの一種の離脱」であると捉えている(『うつ病と躁病』、みすず書房)。自然的な(naturell)経験を、身体や現実的コミュニケーション・コンテクストと理解してみよう。および、認識という観点や認識における我々の不可欠・遡及不要な論理的前提(超越論的前提)という観点からこの《自然的な経験》を考えてみよう。その観点からビンスワンガーによりつつ鬱病を表現してみると次のようになる。つまり鬱病とは、自分の生(ないしは思考や精神状態や信念)を、身体やコミュニケーション・コンテクストから離脱させ(脱コンテクスト化)、そして元に戻すことができないということだ。したがって鬱病には、能力と不能力が共存している。すなわち鬱病者は、「孤立した苦悩能力」(上掲書)を持つ(つまり自分の思考内容を脱コンテクスト化させる能力がある)。だが鬱病者は逆に、切り離した思考内容を元のコンテクストや自分の身体という元の場所に戻すことができないという障害=不能力を持ってもいる。
 さて以上の考察を踏まえて同性愛の出自について考える。同性愛の発生は、美のイデアが自然的な(naturell)経験から離脱したことによるという仮説を立ててみる。そうすると次のように考えられる。自然的な経験(つまり自分の性器および性的な欲望)から、美を巡る思考や美への純粋な憧れを切り離す能力があるが、しかしながらこれを再び元に戻さないところに同性愛の萌芽があったのではないか。もちろん、わざと自分の身体事情(自分は一方の性を持ち、異性と生殖行為をするようにできているという事情)から切り離した美のイデアをそのままにしておく場合もあるだろう。それは考慮しないとして、戻すことができない場合に同性愛は病気と認められるだろう。言うまでもないが以上の仮説では多様な同性愛の形式を全て説明することができない。またこの論述は、同性愛の生理学的・心理学的説明とは無関係である。しかしこの仮説は、同性愛という性愛の作法が生まれる上で経られた重要な役割を言い当てている可能性は否定されていない。要するに同性愛説明のために、十分条件ではないが、必要条件ではありうる。その証明は歴史学と精神分析の研究が行うであろう。
 文化史的証明を飛び越えてさらに推論を進めてみよう。諸個人はいろいろな側面で党派性を帯びる。性別はその一例。プラトンの『饗宴』ならば自分の欠落したもう一方(異性)を探し求める性愛観を提示するだろう。個々人は常に片割れだ。片割れとしての生のあり方は、いわば自然的な経験。だが人間の思考はその党派性を超越し、普遍的愛(アガペー)という形式、超越論的規範を発明した。性愛(エロス)→友愛(フィリア)→普遍的愛(アガペー)。社会的次元でいえば、合理化(および文明化)の過程に深く関わっているはずだ。エロスからアガペーへの過程を、自己の性欲を満たすという利害関心の抑圧と見るか、愛の純化と見るか。いずれにしても社会や思考の合理化はさまざまな行為形式・作法の純化をもたらした。また反面で、粗野な感情の排除・抑圧も行なわれた。合理化が20世紀に意図せざる悪魔的史実を引き起こしたのは周知のとおりだが、同じく、文明化の過程のどこかで、意図せざる同性愛の形式が出現したのではないかと考えられる。


散文(批評随筆小説等) ダンスと同性愛発生の仮説 Copyright ケンディ 2007-08-27 15:58:44
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