「美しい日本」
リーフレイン

「美しい日本」 

トランペットの軽やかなメロディーとエイトビートのパーカッション。転がりそうなベースラインと和音を刻むピアノ。40度の灼熱の外気をよそにクーラーの効いた部屋に寝そべって氷の浮かんだコップを口に運ぶ。汗をたらしながら往来を歩く人をテレビで眺め、熱中症で死んだ中学生に「まあ、かわいそうに」とつぶやく。

そこはかとない優越感はそこはかとない罪悪感に裏打ちされているが優越性を手放してしまうほど善人でもない。自分の子供たちが同じように優越性を確保できるようにと腐心してしまうほどに身勝手でもある。
人は平等ではないし、本当のところ平等でありたいなどとは思っていない。少なくとも、自分より下がいるかぎり。



戦争が起きてほしいと願う少年がいた。
腐った社会をリセットしたいのだ。 平等であるかのように語りながら、実はちっとも平等でない社会の中で底辺になりつつある自分の位置を変えたがってるようにも聞こえた。
なぜ革命ではなくて戦争なのだろう? 形になった弾圧勢力が見つからなかったからだろうか。
 見た目、自由で平等な社会。国民は同じように機会を与えられ、今、安楽にしている人たちは運と、それなりに努力をした結果であり、そうでない人は運かあるいは努力が欠けていた人なのだという構図がとりあえずある。政治は民主的であり、主権は国民にあり、大臣もあまりいばっているようにはみえず、公務員も地味だ。何が倒すべき敵であるか?と問えば、「怠惰である自分だ」と答えがかえってきそうなシンプルで実は複雑に隠蔽された社会構造。戦争を欲した少年は、革命ならばあるはずの国内の仮想標的を持つことができず、「戦争」という答えにたどりついたのだろう。

 隠蔽された構造とはなにか? 私有財産制が必然的にもたらす財の集中、(その速度は税制度によってブレーキがかけられる)資本主義が根幹にもっている拝金主義かもしれない。価値の均一性であるのかもしれない。
 人はひとつの尺度で測りきることはできないはずだが、金という媒体がはさまることで、測ることが可能であるかのような錯覚を覚えさせられる。 あるいは平等な教育という名のもとで、一列に並ばされてしまったかのように思う。
 社会で生きるのに最低必要な素地、豊かな心で生きていくことができるのに必要な知恵と、大学で行われるような専門教育は質的に異なる。大学受験は大学教育を受けるに必要な素養を身につけているか否かを測るものだったはずで、大学へいかない人間にまでそれを課すべきものとはいえない。そして、受験偏差値という尺度が大なたをふるうことで、切り捨てられた価値もあり、振り落とされていく子どもたちもできる。(本来なら持っていい自尊心を持つ機会を失いがちな子どもたちだ。)
 こうした意味では、ゆとり教育 の理念は正しい方向を持っていた。しかし残念なことに国内生産の空洞化が(生産のグローバル化)が同時に進行したことでその基盤を失った。専門教育を受けていない人間につける職業が極端に減ってきたのだ。少なくとも満足な収入を伴った形で職につくためには、専門教育が(あるいは学歴が)必須であるという暗黙の了解が透けてみえる。工場は海外へ移転し、安い農産品がどんどんと輸入され、”手に職”というにふさわしい業種が減る。誰にでもできて安い賃金の職と、専門の教育が必要とされ、高い賃金の職とに2分されつつあり、みな後者を選びたいと願うのである。(もちろん創造性を含む職業はいつの時代もあり、それらは製品のグローバル化の中で割の合わない儲けにしかならない場合が多いのだが、少なくとも創造者の欲求を満たすことができる。とはいえ、人間は衣食足りて礼節を知る生き物なわけで、それだけではいかんともしがたい。)
 ゆとり教育は、その受け皿として、多様な職業がそれぞれに豊かに機能している社会構造が準備されていなければ、意味がなかった。 費用効率に偏った産業構造の中で、技能の高い大工も、電動機械で釘打ちしかしない大工も似たり寄ったりの賃金しか得られない。旋盤を30年回してきたベテラン工員があっさり解雇になる。毎日汗水をたらして作る作物が輸入作物の価格に押され、二束三文に捨てられる。森は荒れ、田畑が雑草に覆われ、廃業した工場に貸工場の札が下げる。 一方専門教育を受ける側でも、国際社会の競争に伍していくためには常に最先端レベルの教育が必要とされる。淘汰を重ねた上澄みもまた切実に必要なのだ。しかも、上澄みの側にたったとしても、国際競争力という壁にあたって消耗されていくのが見える。つまるところ彼らこそが外貨の稼ぎ頭で、国全体の消費を支えているのだ。
労働は消耗される。 自殺が増えた。

少年は戦争を欲したが、本当は 人間の尊厳を欲したのではないだろうか。
尊厳を持って生きたい。生きている価値を感じて生きたい。消耗品にはなりたくないのだ。消耗品となるならば、少なくとも生を掛けたことが明らかになる戦争という構造で消耗されたいと願ったのではないだろうか?

政治家が目指すことは、国民に尊厳を持てと叫ぶことではない。国民が尊厳を持つことができる社会構造を構築することである。
尊厳を持てというのはたやすい、尊厳を持つことが可能な状況をすべての年齢層で実現することが必要とされている。


散文(批評随筆小説等) 「美しい日本」 Copyright リーフレイン 2007-08-18 09:47:33
notebook Home