ゴッホ『刈入れする人』について
ケンディ

この絵の中心はどこか?
絵の面積の大半を占める黄金色の畑だろう。
生きているように色が塗りたくられている。
しかしながら、この蠢いているかのような小麦畑の
力に気づけば、
そのあと自然と気づくことは、
山も、空も、太陽も、農夫も、
実は蠢いているということだ。

燃えているような、萌えているような。
そういった小麦は農夫に対抗している
ようでもあり(ゴッホは農夫が小麦と
戦っていると見た)、
農夫を愛し抱擁しようとしているようでもある。

小さき農夫はただひたすら小麦を
刈り取るのだが、彼はこの命の波に
つつみ込まれてしまっている。

命の蠢きはどちらとも捉えられる:憎悪か、愛か。

しかし、どちらでもないつまり中性であるなどとは
いいたくない。
そう言ってしまったら命は
たちまちのうちに消えてしまうような
気がするからだ。

生命(1)は、その瞬間にゴッホの絵(2)となり、
作者のコンテクストが抜け落ちた
目の前の絵(3)となり、
絵の具の塗りつけられた物質の
かたまり(4)となる。

ゴッホの絵は、
私の目の前で、(2)から(4)の間を
行ったり来たりしている。

この絵を見ていると、どうしてもこの
黄金色の小麦に目がいってしまう。
この部分ばかり眺めてしまう。
すべて黄色系統の色ばかりなのに、
なぜ小麦のゆらぎが分かるのだろう。

長く見つめていると、この小麦は動き出す。
目の錯覚、と思うならば、また(2)から(4)の間を
絵は行ったり来たり揺れ動いてしまう。
ゴッホの表現したかったはずである(1)=生命には
たどり着けない。
小麦の揺れは、瞬間において凝縮されて
表現されている。
連続性・時間が瞬間・無時間の
フォーマットに凝縮されている。

なんと小麦の強調された絵か。
これまでいろんな風景画を見てきたが、
風景の下地としてよく見られるのは、
陸・海・空だろう。
陸と空が、こちら側から向こう側へと
走っているようにして描かれ、
それらがそれら以外の複雑な風景の描写のための
助けとなり、また鑑賞者が全体を迫真あるものとして
眺めるための助けとなっている。

この絵でゴッホは、その形式にあまり
とらわれていない。彼のこの風景画は、
私たちに、陸と空がこちら側から向こう側へと
走っていく連続性を認識して、
絵画全体を綜合することを許さない。
少なくともこの作品はそうだ。

この風景画は風景画であって風景画でないのだ。
絵画全体の綜合を許さない彼の絵は、
インパクトある一部を、自然に突出させる
という効果をもっている。
したがってどうしてもイレギュラーに、
非連続的に蠢く小麦に目が行く。

ゆえにこの蠢く小麦は重力をもっている。
どうしてもそこに目が向いてしまう。引きつける。

したがってこの絵の中で小麦畑は断絶でもある。
全体の景色を俯瞰しようとするならば、
小麦畑は立ちはだかってくる。
向こう側の丘陵を見ようとする者にとっては、
何か邪魔に思えてしまう。

もう少し要約的に言うならば、
絵画全体を綜合して俯瞰しようとするならば、
小麦畑がこの風景画の連続性を遮断するのである。
絵画を全体として把握(begreifen)しようとする
私たちの認識を切断する小麦畑と、
農夫は黙々と小麦を鎌でさっさっと払って戦っている。

連続性を求める認識を切断し、
イレギュラーに動く命が
小麦畑としてシンボル化されていると思った。

農夫も小麦畑と同質であるということだ。
この小さき朦朧とした人物に、ゴッホは
何を託したのか。
けなげに黙々と作業に取り組んで
いるようにも見えるし、ゴッホ自身が
述べているように小麦と戦っているようにも見える。


散文(批評随筆小説等) ゴッホ『刈入れする人』について Copyright ケンディ 2007-08-14 20:12:07
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