博士たちの受難
池中茉莉花
何時だろう 目が覚めた
風子は ふと 秀也の顔を覗きこむ
「ふふ 凍ってる かわいぃ」
秀也の腕がぴくりと動いた
「ねえ、逃げようか」風子はちょっとささやいてみる
「秀ちゃん、逃げるわけないもんね」
風子は また ゆっくりと 横になり ごつごつした枕に 頭を埋める
やいなや 秀也が目をこすりながら ぼそっと つぶやいた
「ふうちゃん、逃げるか」
まさか・・・と風子は思った
「聞かれてしまった」
・・・
大学の研究室。一部屋に4人。机と本棚とコンピュータだけでキチキチだ。もともと2人部屋だったところに詰め込まれたのだから、あたりまえ。4人いても来るのはいつも2人だけ。中国人の王さんは滅多に来ないし、となりの永原さんは「休職中」。だけど、本当のところは実家を継ぐことに決めたのだとか。風子と順子さんだけが毎日ここで仕事をしている。普段の話し相手は順子さんだけ。ここでは人間関係で苦労することはないけれど、人間関係がないのが悩みになってしまうのだ。確かに、教授に業績を盗まれたなんていうトラブルはよく聞くが、幸い風子にはそんな経験はない。
風子はアルファベットと数字にまみれたコピーの山にうずもれながら、その麓でカタカタWordに文章を打ち込む。「新しいもの(something new)」を産みだそうと、頭の中はそれいっぱい。睡魔は確実に襲ってくるのに一週間、起きっぱなしでキーを叩く、そんなときもある。だから目覚まし用のインスタントコーヒーは必需品だ。夕食などは食堂にいく時間を惜しんで、ストックしておいたパンをかじる。冬はもらい物の小さな電気ストーブを机の下に置き、しばれた足を溶かしながら。
秀也もまた、別の研究室で泊まり込みで論文を書いている。それがお互いどれだけ支えになってきたことだろう。
「こんなことして 社会の役に立つのだろうか?机上の空論ではないのだろうか?」
「いや、回り回って必ず役に立つんだ。」
自問自答、そして、ふたりの対話。
博士を同時にとり、一年更新の研究員に採用されたとき、ふたりはやっと夫婦になった。新婚旅行も行けなかったけれど。でも、「ふたり」はうれしいこと。
今年、ふたりは四十を迎えた。
だが、この四月、二人の職の更新は切れた。しかも同時に。机だけはのこされたが、ふたりには何の肩書きも所得もない。
更新切れが決まった日、風子は沸騰しきった頭を、タバコで黄ばんだ研究室の壁に思い切り、ぶつけた。
風子のおでこにはまだその時の痣がのこっている。
・・・
風子と秀也は 布団の上に 正座して 向かい合う
ふたりとも 自分の膝を見つめたまま
「逃げるか 逃げないか」
(手を取り合えばどこにでも行ける。でも、これが私たちの仕事。「どうする?」「どうしよう。」)
手持ちの金はないわけではない
明日はなんとか暮らせるだろう
でも、このうすら寒い街中に、深夜が訪れるたび
地下鉄の駅から 放り投げられ、彷徨い歩く日も そう遠くない
そんな気もして
ふたりの結論は まだ出ない
カーテンの隙間から容赦なく朝の光が刺し込む
微動だにしない ふたりを照らす