Follow, poet, follow right……
んなこたーない

Occasional Poemというものがあるが、文学者、ミュージシャン、タレントなどに
時事問題を語らせると、ガッカリさせられることが多い。
Occasionに際して、何よりもぼくたちが第一に必要とするのは、公平かつ正確な事実、
つまり健全なジャーナリズムなのである。



ジョージ・オーウェル「オーウェル評論集」(小野寺健編訳・岩波文庫)に、
「鯨の腹の中で――ヘンリー・ミラーと現代の小説」という論文が収載されている。
読み所は多いのだが、まずはヘンリー・ミラーが登場するまでのイギリス文学の流れを概括している箇所に触れたいと思う。
オーウェルによると、1910年代はハウスマンのような田園詩人が一世を風靡し、
20年代も後半になると、ジョイス、エリオット、パウンド、ロレンスといった主知的なモダニスムの作家たち、
30年代にはいわゆるオーデン・グループ、オーデン、スペンダー、CDルイスといった
行動的なニューカントリー派が文学運動として台頭してきたという。
ここでオーウェルはオーデンの代表作「スペイン」の一節を引用したうえで、烈しくオーデンを批判している。

   To-morrow for the young the poets exploding like bombs,
   The walks by the lake, the weeks of perfect communion;
   To-morrow the bicycle races
   Through the suburbs on summer evenings. But to-day the struggle.

   To-day the deliberate increase in the chances of death,
   The conscious acceptance of guilt in the necessary murder;
   To-day the expending of powers
   On the flat ephemeral pamphlet and the boring meeting.

オーウェルの批判は「necessary murder」というフレーズに集中していて、

   こんな言葉が書けるのは、殺害がせいぜい「言葉」でしかない人間だけである。
   わたしなら、こんなに軽々しく殺害を口にすることはない。
   それはたまたま殺害された人たちの死体をたくさん見ているからだ
   ――戦死ではない、殺害された人の死体なのである。
   だからわたしには、殺害とはどういうことなのかが多少はわかっている――恐怖、憎悪、泣き叫ぶ肉親、
   検死、血、死臭というものが。わたしなら、殺害はなんとか避けたい。ふつうの人間は誰でもそうなのだ。(略)
   オーデン氏的な道徳欠落症は、いざ引金がひかれるときにはかならず現場にいない人間にのみ生ずるのだ。
   左翼思想には、火が熱いことさえ知らない人間の火遊びのようなものがあまりに多い。

左翼思想に傾倒していった30年代の知識人たちに対するオーウェルの不信感が顕れているのは確実である。
また後年オーデンは政治的なOccasional Poemのいくつかを代表作であるにもかかわらず
改作したり、自薦詩集から省いたりしている。
その行為の理由は詳らかにしないが、オーウェルの批判が直接的にではないにせよ
間接的には作用していたことに間違いはない。
鮎川信夫は「1930年代の射程」「最後の疑問に」というエッセイで、
同じ問題を取り上げて、あくまでオーデン擁護の立場をとっている。



ここでフジシロ武「『もう一つの世界』とモラルについて」を読んでみよう。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=129382&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26cat%3D5

もう充分にコメントがやり取りされているので、いまさらぼくが容喙する必要もないのだが、
明らかなのはフジシロ武氏とオーウェルの意見が真っ向から衝突しているということである。

また、一読してすぐに気づくことが二つあって、
ひとつは「その世界ではたとえば、人が空だって飛べるし、何度でも生き返ることだってできるし〜」云々というところで、
この程度で「現実世界とはまるで違う」というのは少し言い過ぎで、
フィクションといえど、それは現実世界での経験のreflectionでしかないわけである。
言い換えれば、現実世界との関わりなくしてノンフィクションはありえないということだ。
もうひとつは、「小田実」という人間はノンフィクションであったという点があっさり看過されている点が気にかかる。



たしかに、言葉は書かれてしまえば、紙の上だけで充分完結することができるというのもまた事実である。
紙の上だけの自律した小宇宙で、父親を殺そうが、母親を犯そうが、それは個人の勝手で、
一昔前なら危険思想や猥褻性は検閲の対象になったが、いまでは誰も気に留めない。
その行為がラジカルになればなるほど、いまだにナイーブな人間ならば憤慨することもあるかもしれないが、
きちんと心得た人間ならば、幼稚なジョークとしてしか受け止めることはないだろう。
もちろん、たとえそれが幼稚なジョークであろうと、興味を持って読めるのならば、
享受する側は結構満足感を得られるのかもしれない。
しかし結局それで得られるものは即時的な快楽でしかなく、満たされれば解消してしまう程度のものである。
現代はジャンクフードだけで健康に生活していくことも不可能ではない時代かもしれないが、
望むべくは、フィクションの世界から現実世界へいま一度reflectionを発生させることによって、
現実的な生をより充実させることではないのだろうか。



ところで、ヘンリー・ミラーはある文章のなかで次のように書いている。
「私の人生自体が一つの芸術作品となった」
「私は、社会問題を社会人として死ぬことによって、解決してしまった。
 真実の問題は、隣人と仲良く暮らしたり、自分の国の発展に貢献したりすることではなくて、
 自分の運命を発見すること、人生を宇宙の深い中心の旋律に調和させることなのである」

ヘンリー・ミラーもまた自律した小宇宙を抱え込んだ人間である。
社会問題を社会人として死ぬことによって解決してしまったボヘミアンというのは、
ひとつの芸術家像として、ぼくらにもお馴染みのものである。かれが徹底した自伝的作家であったのも当然だろう。
しかし社会人として死ぬことは誰にでもできることではない。
ぼくらは隣人と仲良く暮らしたり、自分の国の発展に貢献したりしなければならない。
ぼくらはあらゆるOccasionに対して常に応答するだけの準備を整えておかなければならないのである。
なぜかといえば、それもまた自分の運命を発見することであるからだ。


散文(批評随筆小説等) Follow, poet, follow right…… Copyright んなこたーない 2007-08-08 06:15:24
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