台風のクジラ
蒸発王
台風一過の夕焼けには
いつだって
涙を浮かべて
手を振ってしまう
『台風のクジラ』
僕は台風の前日には
落ち着かない子供だった
ずんずんと迫ってくる
雲の足音や
いつもは素通りしていく風が
強く
早く
絡みつくように旋回するのが
とてもドキドキして
南海で台風が生まれるたび
経路を聞きつけて
自分の町を通らないと知ったときなんか
すごくがっかりした
その日もちょうど
そんな風にがっかりしていて
団地の屋上で
一面に広がる
桃色の夕焼けを見ていた
嵐の前には
空気のせいか
夕日はいつも
蛍光塗料をまぶした桃色になる
玉虫色の光彩に目を細めると
西の空で
ずんずんと迫る台風の匂いがして
無性に悔しくなって
東の空に向きかえると
そこに
白いクジラが泳いでいた
口元が
穏やかに
眠るように笑っている
クジラは月ほどもある
大きなヒレを動かして
西へ向かっていた
西の空は
台風が来ていて
危ないのに
僕がクジラを止めると
クジラは白い鬚を
ゆるゆると緩ませ
台風の雲を食べるために
行くのだ
と笑った
広大な雲の海を泳いでいる
彼は
全身がきめ細かい雲で出来ていて
エサは大きな雨雲だという
だから台風がおこると
雨雲を食べに行くのだそうで
台風の目の周り
10キロの雲が一番美味しい
それでも
風は強く
雨は突き刺さるから
食べるどころか
油断すると
粉々に砕けてしまうそうで
もっと楽な雨雲を食べれば良いのに
と問うと
嵐がもたらすのは
恵みだけではない
私たちが台風を食べないと
地上には雨が刺さり続け
作物が死に
木が崩れ
水が汚される
そうなれば
この空でもう
クジラは生まれない
だから
行く
と
クジラは長い睫毛を伏せた
その夜から
翌日の昼過ぎまで
西の空は
今世紀最大の台風が暴れまわり
犠牲も多くて
西から流れる風には涙の匂いも混じった
ようやく
通り過ぎ去った
夕暮れ
蕩けた太陽から
にじみ出る
夏のエキス
最果ての紅蓮の炎
紅色の夕焼け
その空の端に
あのクジラを見た
白かったクジラは
全身を朱鷺色に染め上げ
腹から尾びれまで
ぱっくりと割れていて
そこから
赤い肉と血が
長くたなびいていた
台風一過の
空が赤いのは
太陽のせいだけではなく
あの紅蓮は
クジラの傷から
溢れた血が
静かな空を染め上げたせいだ
と知ったとき
僕は
初めて
台風がなければ良いと思った
涙を浮かべて
クジラに手を振った
台風一過の夕焼けには
いつだって
手を振ってしまう
『台風のクジラ』