空気を読む猿、単純化したがる原始人
結城 森士

 物事を単純化して答えを割り出してしまおうとしている人間が、自分も含めた若い世代に増えているように思える。

 例えば、「ムカつく」という言葉だけで意思疎通が出来てしまうのことは面白いのと同時に深刻な問題だと思う。その単純で表面的な一単語があれば、雰囲気を大事にする仲間同士の結束は硬くなるだろう。しかし、それは薄っぺらい思考の産物に過ぎない。雰囲気とはあくまでも表面的なものだからだ。
 僕達の世代は、協調性や雰囲気に重きを置きすぎて、知的論証を軽視しすぎるきらいがある。協調性は勿論大切だが、無知の上に成り立つ原始的な協調など無いほうがまだマシだ。「雰囲気に沿わない者を仲間はずれにすることが結束への大きな近道」というのは考えるまでも無いことだが、それを当たり前の手段として用いてしまうのはあまりにも幼稚で原始的だ。
 何がどうムカつくのかを考えていくことがムカつく相手への正しい対応の仕方であり、物事を単純化して割り切ってしまう思考・行為はいじめに繋がる直接的な原因である。安易に単純化することに逃げてはならない。本当の和の為に、理性と知性を持って相手と対峙して欲しい。
こういうことを書くと、こんな声が聞こえてきそうだ。

「偉そうな文章は読む気がしない」
「空気読め」

今の子供達はおそらく、雰囲気を大事にしすぎているのだろう。僕が小学生のときもそうだった。大人たちから「人に優しくしよう」と言われ続けて、周りの人に合わせていた結果、逆にいじめなどがおきやすくなったのではないか。確かに全体的にみんな表面的には大人で、スマートで優しい。
 今の若い人は確かに協調性が高く空気を察する洞察力に長けている(仲間はずれにされないように)。そういう環境に育ち、それを大切にしてきたからに他ならない。ネットなどで「自重」という言葉が流行ったが、「自分をわきまえろ」ということを教えられてきた世代ということだろう。
いじめられる子は、やはり雰囲気を無視するような子だったり、集団に向いていないような個性的な子が多い。大人達も、そういう子を見ると嫌な顔をする。
それほどまでに、集団が大切な国らしいのだ。
何のための集団か知らないが。
真実を見ようとする人間は大抵は疎んじられる。
皆の足並みを壊そうとしているように見えるからだ。
でも実際、壊したい。
皆の足並みに外れて、
皆にひきづられて血を流している人が確かにいるからだ。
皆に罵声を浴びせられて涙を流している人が確かにいるからだ。
それを見ないふりをして自分の利益ばかり追求する人がいるからだ。

協調、共感、同調、僕には薄っぺら過ぎて、虫唾が走る。
もっと現実や真実で判断しようとは思わないのだろうか。
孤独を恐れずに、一人だけでも戦う気はないのだろうか。
自分の保身だけを考えて生きているから真実が見えないのだ。

こういう雰囲気は逆に僕にとって住みづらい。何でもかんでも「協調性」を重視する偽善的な良い子ちゃん達は、「真実」を見ようとしていない。自分の力で、自分だけの真実を見つけようとしたことは無いのだろうか。立場的な弱者を作り上げることがそんなに大切なのだろうか。孤独になることを恐れずに戦っていく気はないのだろうか。
周囲の雰囲気を大事にすることが大切なのではない。
本当は、目的を達成することが大切な筈だ。
利用されてはいけない。


散文(批評随筆小説等) 空気を読む猿、単純化したがる原始人 Copyright 結城 森士 2007-07-31 11:17:44
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