遠い古い時代のこと。一人の旅の商人がいずこかを指して道を歩いていた。
やがて村落の境にさしかかると、石を積んで作られた小さな塚(ケルン)が道端に祀られてあった。
それは旅人を案内する目印であり、危険な旅の無事と安全をつかさどる神そのものであった。
彼は石をひとつ拾うと、他の旅人がそうするように石の山の上に置いた。
それからなにごとか祈りを捧げると、再び彼自身の道を進むべくその場を去った。
道端に積まれた目印の石の山はヘルマと呼ばれ、ヘルメス神を表した。ヘルマは男根の像である。古代ギリシャではヘルメスは境界の神だった。
元来、ヘルメスは動物を守る神だった。その像は肥沃や多産の象徴であった。それが旅人を案内する旅の守護神とされ、転じて商売の神、商人に必要な能力である雄弁の神(ロギオス Logios)となっていった。
こうしてヘルメスは多くの機能をもつ神であった。他に泥棒、伝令、叙述、策略、体育技能、天文学、占星術、眠り、夢の神などである。
ヘルメースはトラーキア起源の非常に古いペラスゴイ人の神である。特にアルカディアの羊飼いたちに崇められ、その役目は、彼らの羊群を見守り、彼らの小屋を保護することであった、といってよいであろう。この神の多少露骨な像を家の入り口に置く習慣が、ギリシアに起こったのも、まちがいなく、この理由によるものであった。ドーリア人が侵入した後、ヘルメースの名声は弱まった。アポローン・ノミオスが代わってその役をつとめ、羊飼いや動物の多産の神としての原始のヘルメースは、別な性格を持つようになった(ギラン「ギリシャ神話」 p.107)
男根像としてのヘルメスもまたペラスゴイ人より伝わった起源の古いものである。
しかしギリシア人が勃起した男根を具えたヘルメス像を造るのはエジプト人から学んだのではなく、ギリシアではアテナイ人がはじめてこれをペラスゴイ人からとり入れ、アテナイから他のギリシアへ広まったものである。アテナイ人は当時既にギリシア人の数に加えられていたが、そこへペラスゴイ人が移ってきてアテナイの国土に共に居住することになったもので、それ以来ペラスゴイ人もギリシア人と見なされるようになった。カベイロイの密儀はサモトラケ人がペラスゴイ人から伝授を受けて行っているものであるが、この密儀を許されたものならば、わたしのいわんとするところは判るはずである。というのは、アテナイ人と共住するに至ったペラスゴイ人は、以前サモトラケに住んでいたもので、サモトラケ人は彼らから密儀を学んだものだからである。そのようなわけでギリシアではアテナイ人がはじめて、男根の勃起したヘルメス像をペラスゴイ人から学んで作ったのである。これについてはペラスゴイ人の間に聖説話が伝えられているが、その内容はサモトラケの密儀において示されている。(ヘロドトス「歴史」 2.51)
紀元前6世紀に、アテナイ周辺の石の塚は、石造ないし青銅製のあごひげをたくわえたヘルメス神の胸像に取り替えられた。その土台には勃起した男根を具えてえた。
ヘルメスの生誕地とされるキュレネでは、単に彫刻された男根像のみ祀られた。
アテナイでは、各家庭が幸運を祈って入り口の前にヘルマ(男根像)を立てていた。
ヘルメスの最も知られた神話での役割は、神々の考えを人間に伝える伝令役であった。
また、他のヘルメスの重要な役割にサイコポンプがある。霊魂の案内者である。死者の魂を冥府へと導く役目は、この神の旅人を案内する機能の自然な発展と思われる。
そんな場合、ヘルメス・プシュコポムポスと呼ばれて、天界のヘルメスと区別されることもある。
ヘルメスは、ハデスとペルセポネの他に、制約なく冥府を往来できる限られた神である。
例えばオルフェウスの冥府行の時にはヘルメスが随伴していた。
オデュッセイア第二十四歌で、謀殺された求婚者の霊魂を冥府に導くのもヘルメスである。そこのくだりを引用してこの文章を終わる。
キュレネ生れの神ヘルメスは、求婚者たちの霊魂を呼び出した。手には美わしい黄金の杖を握っていたが、この杖を用いて神は思うがままに人間の目を眠らせもし、眠れるものを目覚めさせもする。神がこの杖を揮って追い立てると、霊魂の群はちち、ちちと異様な啼き声をあげつつ、神に随ってゆく。それはあたかも、不気味な洞窟の奥深く、連なりあって岩壁に懸かる蝙蝠の列の一羽が岩から落ちると、群はたちまちちちと啼きつつ飛び交うさまにも似て、霊魂の群はちち、ちちと啼きつつ神に随い、助けの神ヘルメイアスはその先頭に立って、陰湿の道を導いて行った。オケアノスの流れを過ぎてレウカスの岩も過ぎ、陽の神の門を過ぎ、夢の住む国も過ぎると程もなく、世を去った者たちの影――すなわち霊魂の住む、彼岸の花(アスポデロス)の咲く野辺に着いた。(ホメロス「オデュッセイア」 xxiv.1-14)