(エセ)唯脳論で片付けを考える

たとえば、ほんとうに大切なものができたときにヒトは強くなれるように
たとえば、無名のバンドがたった一枚のアルバムで世界への切符を手にするように
何でもいいんだけど、そんなふうに何かが劇的に変わる瞬間てあるんでしょーか、自分の人生において。
と、どーでもいいことをぼんやり考えてる原因は、激的に片付けが出来ないから...。
どー考えてみても、部屋の片付けが出来ないから...。

そもそもぼくはきれいに整理整頓されてる空間とゆうものがどうも苦手とゆーか、
却ってなんだか居心地が悪かったりとかするし、逆に雑多な空間のほうが肌にピッタシくるとゆーか、
むしろ乱雑にこんがらかった部屋ではいつプラモ雪崩が発生して下敷きになるやもしれない...
とゆう恐怖感からピクリとも無駄な身動きをしなくて済むとゆうかもはや快適ライフに支障をきたします!

でも、だからといって、なかなか出来ないんですよね〜片付け。
不便だし、ふいに地震なんかが起こるとほんとうにモノの下敷きになり圧死してしまうかもしれないけどデキナイ。

でアレコレ考えを巡らせた結果、これはもう自分の意識そのものをガラリと変えてしまうよーな、
何かドラスティックな動機付けが必要なんじゃないか、と。
で、どーすれば自分を片付け人間へとまっしぐらに向かわせてしまうよーな、そんなミラクルな出来事に遭遇出来るのか、と
あたまを抱えてぐるぐるぐるぐる思案してみるものの、ヒュ〜ララリラ〜...。
都合よくそんな出来事に遭遇できるワケないし、そもそもどんな出来事なんだよ...と。
モハヤウツテナシ!

で実行に移すその前に早くも計画が頓挫してしまった者が次にとった手段は「洗脳」ですよ。
つまり片付け出来ないコトが自分の快適ライフにとっていかに悪いコトかってコトを、自分で自分にインプット!
まずは、部屋の散らかり度合いは自分の脳の散らかり度合いに比例するとかゆう例のホニャララ(何だっけ?)から何かヒントを得よーと、
否、それとは全く無カンケーに、今にもマンガやCDの重みでぶっ倒れそーな本棚から手垢でボロボロになった「唯脳論」(養老孟司/著)を抜き取り
寝転がって、パラパラとページをめくりながら考えてみたワケですよ。
まあ、大体そんな本持ってないしちょいとネットでググッて内容をアレしたわけですが...。

で拾ってきた「唯脳論」の有益かつ印象的な情報はといいますと、この本の冒頭らしき部分の、

「心というのは、もっと霊妙不可思議なものだ、と考えがちだけど、
脳と心の関係の問題、すなわち心身論とは、じつは構造と機能の関係の問題に帰着する。」



「循環系の基本をなすのは、心臓である。心臓が動きを止めれば、循環は止まる。
では訊くが、心臓血管系を分解していくとする、いったい、そのどこから「循環」が出てくるというのか。
……心臓は解剖できる。循環は解剖できない。
// 心臓という「物」から循環という「作用」ないし「機能」が出てこないように、
脳という「物」から「機能」である心が出てくるはずがない。」

シビレましたね。
神妙不可思議な心とゆうものの謎解きを、あくまでも養老先生の領域たる解剖学的見地から試みるとゆう姿勢に!
冒頭から惹き付けられる文章で、めちゃおもしろそーです。
ちゃんと買って読んでみたくなりましたよこの本が!

...ま、よーするに片付け問題にあたま抱えてる人間としては、部屋内部でうず高く積み上げられ動けないでいるモノたちよりも、
それらがさもシュルレアリスムのデペイズマン(倒置)みたく本来あるべきではない場所に、本来の機能が失われたカタチで配置されて
しまっている原因をつくったその「循環」(の不全感...)とゆう、目に見えない作用のほうの着想に行き着いてしまうわけで、
なんの動機付けにも洗脳にもなってないワケですけれども...
ゆゆしき不全感のスパイラルから抜け出すためにもボチボチやってみますか〜、片付け。。


散文(批評随筆小説等) (エセ)唯脳論で片付けを考える Copyright  2007-07-27 16:40:58
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