じっとりと雨に濡れた夜の草の匂い
円谷一

じっとりと雨に濡れた夜の草の匂いが外からする
窓は閉め切っているのに 雨も降っていないし 夜でもないのに 外に草むらがないのにだ


裸足で大都会を歩いて抜けて郊外に出ると風に新幹線に乗っているようなスピードで流れる景色を新鮮な空気を吸いながら蒼い富士山だけを静止させて眺めていた
河原を痛みが足の裏に突き刺さりながら川を目指していった 急に太宰治のことを思い出した 入水自殺 彼ともう一人の女性のシルエットがぼんやりと眼前に浮かびだした 彼らに重なりながら川に傷だらけの足を入れた
水温は生温く川底はぬるぬるしていた きっと魚がいるのだと思い昨日の雨で増水し上流から流れ込んできた土砂で濁った水面に真剣に目を懲らして探し始めた 左足の親指に唇らしきものが当たったのだ しばらく探しているともっと奥に興味が散りどうでもよくなり少し前に進んでいった 捲し上げたジーンズはすでに濡れてしまって 後悔が先立ったが 思考を足の裏に回していって踏ん張った 自分が流されているように見える 次第に頭が混乱してきた ここは何処? 私は誰? 今は地球が何回回った時?
様々な感情が胸の中で交錯していって はっとして富士山を見た 川の流れが聞こえて景色が元に戻って新幹線が鉄橋を通過してじっとりと雨に濡れた夜の草の匂いがして口元まで水が来ていた
無意識にフルスピードで後ずさりしてずぶ濡れになった服に嫌悪感を感じながら河原に上がった 一体何を考えていたのだろう?… 中州まで行きたいような気持ちになった もう一度入って川の流れに流されまいと頑張っていたが結局辿り着くことができなかった 


様々な色彩で彩られた夕焼けの空の下を商店街の光が照っていた ずぶ濡れた体ですたすたと歩いて行くと 街行く人々 特に若い男性にブラジャーの線が透けて見えるぜ と笑われた そんなことも気にせずに商店街の奥へと吸い込まれていったが 自分が何処を歩いているのか分からなくなって 真っ暗な路地の迷路の中をあてもなく歩いていった
気が付くと一軒の何語で書かれているか分からない看板の打ち込まれている店屋に着いた じっとりと雨に濡れた夜の草の匂いが中からしてきた 凍えた体でさらに冷たい取っ手を捻って入ってみると 鈴がカラン コロンと鳴って同時にいらっしゃい というしゃがれた声が聞こえてきた 中にはいるとまだ冬でもないのにストーブが物凄い勢いで燃えていて 店内は熱気が凄かった 奥には威圧的な無数の引き出しがあって しゃがれ声の本人の婆さんは小さい体を丸めながら草のようなものを引いていた ここは薬屋だよと婆さんは言って 再び草を引き始めた なんだか宮崎駿の世界に引き込まれたようで何と言っていいのか分からなかった でもじっとりと雨に濡れた夜の草の匂いはここからやって来たのだと思い 何かの縁だと思って ここで働かせて下さい! と頼んだ ここには何も仕事をすることは無いよ と婆さんは言ったがしつこく何度も懇願して ようやく承諾をもらった


現在 この薬屋で雑用係として一生懸命に働いている


自由詩 じっとりと雨に濡れた夜の草の匂い Copyright 円谷一 2007-07-27 03:58:12
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