げんとう
月見里司

 走らなくて良い。そう言った男は走っていた。雪の少ない地域であるということは、気
温の高い地域であるということとイコールではなく、早い日没を経てすっかり宇宙が透け
ている。星々の吸熱を、誰も止めることはなく、かりかりと大気を引っかいて街が冷えて
ゆく。男は速度をあげて、電柱と電柱の間を十秒足らずで駆け抜け、白い息と、氷りかけ
た足音が轍のように道路にセンターラインを作る。郊外に出るころには雲が育ち、吸熱さ
れそこなった、ほとんど残っていない熱たちが、所在なく漂って、降りかけの霜と踊って
いる。

 月がない。大きく息を吐き出した男は、車も通らない道路の真ん中を、ひどく緩慢に歩
いている。思い出したように懐から手紙を取り出し、路面に投げ打つように置く。足は止
めない。手紙は白い封筒で、中に一枚便箋が入っているだけの、通知のような代物だっ
た。宛名はどこにもなく、男の名前もない。ただ墓碑銘のような文節の連なりが癖のない
字で書かれていた。いつの間に、男は随分と離れたところまで歩いている。自らの言葉通
り、走る必要などなかった。最初から。

 ますます厚くなる雲から、とうとう降り始めた雪が、遠くにある街灯のおぼろな光を遮
る。弱いまま降り続ける雪の中、日は昇らずとも、朝は来て、路面に置かれた手紙を薄く
積もりはじめた雪が、隠す。解けたあと、そこには何もない。


//2007年2月 同年7月改稿


自由詩 げんとう Copyright 月見里司 2007-07-25 13:22:33
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