置き去りカンバス
悠詩

てのひらから
指折り数える時間の粒があふれ出す
指の間からぼろぼろ零れ落ちる速さは増し
掴み取るのが追いつかなくなる
焦って
その姿を子供たちに見られていることに
また焦って
わたしの欲しいなにかを探す旅に出た




醒めかけた陽炎が
錆びた空をも溶かそうとしている丘に
天球をかたどったカンバスは置かれていた

誰が描き忘れていったのだろう
地味豊かな大地に芽吹いた木々は
鳥の囀りとともに躍り
太陽と雲の綾なす光の帯が
手をつないだ
女の子と
男の子を
彩る

指でカンバスを掬ってみる
ふんだんな血肉と光でできたそれは
プラチナのように肌になじみ
舐めると鈍色の天が刹那に微笑んだ

こんなに神々しい絵なのに
三脚はぐずぐずで
つつけばすぐに崩れてしまいそう
わたしは指でそれを押してみたが
脚は絵の具を吸い込んで
更に強く大地に根を張った

カンバスの木も
鳥も
女の子も
男の子も
ここにはいない
時は流れ
世界が姿を変えてしまったらしい


カンバスの足もとから
足跡が伸びている
誰もいない世界にスニーカーがスキップ
どうしてほどけた紐の跡までついてるんだろ

足跡を辿る
足跡はスキップをやめ
小走りになり
速歩きになり
それも疲れて
やけになって
後ろ向きになったり




大きなトネリコの木が
世界をも覆おうとしている丘に
拳銃をかたどったカンバスは置かれていた

誰が描き忘れていったのだろう
二重の二点透視図法に
閉じ込められた住人は
鷲の翼と獅子のたてがみを求め
拳を振りかざしていた

こんなに壮絶な絵に
三脚は三脚ではなく
一脚が乱暴にしかし渾身の一撃で
地面に突き刺してあった

住人の中にわたしを見つける
夢に飢え
夢に渇き
そしてなにかを得て叫んでいた


びくり  とした

今のわたしはなにも手にしていないのに
おためごかしな他人の希望を描いたのは誰?

絵の中のわたしが得たものが欲しくなり
右手が伸びる
カンバスに触れると
拭い忘れていた指先の虹色の絵の具が
幻を拒み
火花を散らした

痛みを訴えて天を仰ぐと
鬱蒼と繁る大樹の枝の向こうに穴があき
ひとひらの紙が舞い降りた


「忘れているから忘れ物なんだ
 憶えているんなら持ってこられるはずだから」


  +   +

なにかに不満を持ち
なにかに逆らい
「これだからオトナは」という
セリフを呟くたびに
わたしが大きくなった時にはと
強く誓う

誓いは信頼をつくり
信頼は裏切りを生み
年を重ねるごとに
裏切りの恐怖に晒される

オトナになるのが恐い子供
コドモになるのが恐い大人

そして虚勢が文字通りになっていき
ないものねだりに自己嫌悪

ないものねだり?

それは本当にはじめからなかったの?

夢を与える振りして
興醒めした振りして

持っていたものも
持っていなかったものも
時がヒトを変えるだなんて
そんなことあなただって
思いたくないんでしょ?


  +   +



ここで翼とたてがみを得た気分になっていた時から
描き手はこの世界に別れを告げ
ひとつ上の世界に堕ちていったのかな
「忘れているから忘れ物」なんて
へんてこな理屈に頷いた時から
この世界は忘却に蝕まれ始めたんだ

醒めかけた陽炎の消えそうな世界にあるのは
天球のカンバスと
拳銃のカンバスと


命の大樹のみ


トネリコを見上げて描いたその手にあったのは
手に入れたつもりだったなにがしかの栄誉
夢や希望と引き換えた
長い道程への切符




まだここで引き換えてはならなかった切符




てのひらから
指折り数える時間の粒があふれ出す
指の間からぼろぼろ零れ落ちる速さは増し
掴み取るのが追いつかなくなる
零れ落ちていくのは
あまたのカンバスに描かれていた風景




縺れる足で必死に駆けて
大地に刻まれた足跡を辿る
消えてしまう前に
消してしまう前に

醒めかけた陽炎の漂う丘は
濃い闇に覆われていた
ぐずぐずの三脚に支えられたカンバスは
ためらいもせずに胸を張っていた
泣きながらカンバスに縋りつき
がむしゃらになって目を凝らす

ここはどこだっけ
描かれたのはいつだっけ
この女の子は
この男の子は
誰だっけ
わたしが懸命になって手をつないでいる
この子は誰だっけ

わたしはなにをしにここに来たんだっけ
もうすぐ消えようとしている世界に
わたしはなにをしに
来たんだろう


わたしの住んでいたこの世界を
わたしは捨ててしまったのに

消そうとしていたと


いうのに



雫を吸い込んだ一握の粒が
遥か彼方に聳えるトネリコの葉を揺らす
馥郁たる香りが
カンバスを包む

拭い忘れた指が
男の子と
女の子の
手に呼応する


ぐずぐずの三脚で踏ん張り
また見にきてくれることを信じて
ずっとずっと
誰かを待っていたんだ




わたしの住んでいたこの世界を
わたしは捨ててしまったのに


消そうとしていたと



いうのに







自由詩 置き去りカンバス Copyright 悠詩 2007-07-25 00:28:31
notebook Home