今夜月明かりに虹を見る
rabbitfighter

体の傷は癒えても、心の傷は癒えそうにない。


デッキに出る。潮風を浴びる。手を広げると微かな浮遊感を感じる。船団を組み、真っ白な帆を張り、未だ見ぬ神秘を目指し錨を揚げたのはいつの時代だったか。


独身者のためのシングルルームが並ぶ長い廊下には窓がない。アルファベットと数字が組み合わされたルームナンバー、のぞき窓、かもめの羽のような曲線を描くステンレススティールのドアノブ、あるドアにはリーフがかかり、別のドアには国旗がかかり、また別のドアにはロックアーティストのポスターが、アニメのキャラクターが、どこかの風景写真が、色鮮やかなオイルペインティングが。
 ドントディスターブのサインが吊るされたドアノブを引きスライドドアを開ける。12?の部屋にある家具はベット、デスク、ソファ、洗面台、クローゼット、フリッジ。鏡がついた洗面台のドアを開けると中には歯ブラシや髭剃り、薬ビンなんてこまごまとしたものが並び、クローゼットにはよれたシャツとズボンがそれぞれ何着か、デスクにはパソコンと小さいが精密な地球儀、ワイヤーで組まれた帆船の模型、プラスティックのフレームのサングラス、ソファには脱ぎ捨てられたパンツと靴下とブラとシャツ、ベットに横たわる君の眠りは夢も見ないほど深く、足の方の壁にかけられたモニターには深海のライブ映像が流れている。どの壁にも、窓はない。

ソファの上の衣類を脇に寄せて、空いたスペースに身体を沈ませる。潮風のせいで髪がつめたい。ブランケットからはみ出した君の足の踵に手を伸ばす。眠っている間、人は孤独で、気休めに夢を見る。多分洗面台の棚にあった薬のせいで、君はそんな気休めを拒絶する。まるで島のように、君の身体はベットに沈む。稜線を描く腰のくびれ。さっき見た夕日をまた見たいと思う。日を背にして、雲の輪郭が金色に染まっていた。でももう間に合わないだろう。日は沈み、星が囁き始める。

 乗員たちの間で単に「タンカー」と呼ばれるこの船は、建造中に会社が倒産し、解体する目処も立たないままだった大型タンカーを財団が買い取ったものだ。化石燃料を積むはずだったタンク部分に居住区と研究施設を設け、スポーツジムや商業施設をも併せ持つ独立した研究都市で、国内外の大学、研究所が学生やエンジニアたちを派遣している。タンカーが世界から最も注目を集めたのは燃料電池を動力源とするその運行システムで、海水から水素を取り出すことにより完全な自給自足システムを形成している。モーターで走るために船は静かだ。船体深くに沈むこの部屋では、隣人が部屋でパーティーでも開かない限りしんとしていて、まったくそれは僕に海の奥深くを思わせた。蒸気機関の発明以来、内燃機関の騒音と排煙に侵略されていた船は、ようやくその静けさを取り戻したのだ。

そしてその静けさの中で、僕たちは呼吸していた。僕は一瞬、書きかけのレポートに気持ちを向けたが、すぐにまた彼女の方に戻ってきた。寝息はかすかで、口は閉じたままでいる。僕の飲んでいる睡眠剤は、浅い眠りを飛ばして、いきなり深い眠りに落ち込んでしまう。一錠で約三時間、何錠飲んだかはわからないけど僕がデッキに行く前にはまだ起きていたので、少なくても後二時間は眠っているはずだし、少々のことでは起きないだろう。ブランケットをめくると、裸の彼女が横たわっている。その裸は、欲情を感じさせないほどやせ細り、鎖骨や肋骨がくっきりと浮き出ていた。食べることもままならず、夢にすら苛まれ、それでも静かに呼吸している、まるで月のように、熱を持たない、月光のように。
 
 彼女の体をそっと隅へ寄せて、隣に腰掛ける。左手でそっと彼女の髪を梳く。足元のモニターに目をやると、相変わらず深海の世界を彷徨っている。
 現代最高の錬金術師たちの傑作、カーボンナノチューブによってつながれた探査機器たちは、触手のように海底に放たれている。鋼鉄のワイヤーでは途方もない重さになってしまうところを、このカーボンナノチューブはそれよりもはるかに軽く強く、しかもケーブルとして情報の伝達までこなすことができる。そこから送られてくる情報はすべて閲覧可能で、情報の解析のために、船内のほとんどのPCは分散コンピューティング網に組み込まれている。
 青白い投光機の照らす範囲に生き物はまれで、時々甲殻類にお目にかかるといくつかの部屋で歓声が上がり、録画された映像は愛好家たちの共有フォルダにファイリングされる。フォルダの中から水母の映像を選択する。それは彼女のお気に入りで、再生履歴は80回を越えていた。そういえば、彼女と知り合うきっかけもこの水母のファイルだった。


タンカーのクリニックには数人の専門医と看護士が駐在していて、彼女はメンタルクリニックで看護士として働いている。もともとは彼女もドクターの患者の一人で、ドクターがタンカーのクリニックで働くために勤めていた大学病院を去るといったとき、看護士の資格を持つ彼女は同行させてほしいと懇願したそうだ。二人にとってそれは、それぞれの意味で苦渋の決断であっただろう。 
 子供のころからの不眠症もちだった僕はこの閉ざされた環境の中で生活できるのか不安に思っていた。僕の通っていた病院がカルテと処方箋をタンカーのクリニックに送ってくれて、ドクターは後日直接僕にメールをくれた。「船には君が必要といている薬の備蓄は十分あるし(それは彼女のために用意されたものらしい)、君にその気があるなら、一緒に治療の道を探しましょう。」その言葉に背中を押されて、ぼくは船に乗ることができた。
 乗船初日は、同じ日に乗船した5人の学生とともに船内をみてまわるオリエンテーションに参加した。その途中、僕はクリニックでドクターと会い、軽い会釈をすると、ドクターのほうでは僕に気づいているらしく、今後の相談をしたいから後でクリニックに立ち寄るようにと言った。オリエンテーションはその後も続き、この驚くべき大きさの船を一回りするころには、皆一様にへとへとだった。オリエンテーションが終わると、五人でラウンジに集まり軽い食事を取った。いずれも学生だが、その専門はそれぞれで、工学、物理学、海洋生態学、気象学、情報工学、そして僕の専攻する環境学。海洋生態学を学ぶSとは同じ大学の友人でもある。
 クリニックの場所は分かりやすい。デッキ後部には船の頭脳である船橋があり、その船橋の二階部分がクリニックに当てられている。自動ドアが開いて中に入ると、僕を出迎えたのはさっきここにいなかった彼女だった。背が高く、痩せているせいでいっそう細長く見えて、白衣の肩には船員の証であるブルーのリボンが鮮やかで、外見と、そのゆっくりとした動きは、僕に深海の生き物を思わせた。今でも、彼女といると、僕はそんなことを思わずにいられない。光の届かない暗闇、鉄を押しつぶすほどの水圧、 それはそのまま彼女の纏っている世界で、彼女はそんな世界に生きている一匹の深海生物だ。
 一時間ほどのカウンセリングの途中、ドクターは彼女を看護士として紹介した。さっきから気になっているようだからと、ドクターはいたずらっぽい目をしながら言った。なるほど、彼は確かな心理分析眼を持っている。その時彼女と少しだけ話をした。船の生活は気に入っているという。ゆったりとした揺れが安らかな眠りに導いてくれるらしい。あなたもきっと気に入りますよ、微笑みながら僕にそういった。
 
 それは確かにそうだった。小さいころから、乗り物に乗るとすぐに眠くなった。バスや電車に乗って旅行に行くと、いくらでも眠ることが出来た。眠れないと酔うから、その分必死だったのかもしれない。乗り物酔いはそのうち無くなったけど、乗り物に乗ると眠くなる癖だけは消えなかった。そしてこの巨大な船のゆったりとした揺れは心地よかった。眠れないとき、気持ちを揺れに合わせるようにするといつの間にか眠りにつくことが出来た。
それでも時々、薬を必要とした。

 窓の無い部屋で生活をするのは初めてだ。両親と暮らした部屋の窓は、開けるとすぐ隣のマンションで視界が覆われてしまうような味気ないものだったけど、それでも窓の無い部屋よりずっとましだと、ここへ来て思った。この部屋に来てもう六ヶ月になる。
 環境の変化は自分にどんな影響を与えただろう。思えば僕はいつも、うまく立ち回ろうと努力していた。人との距離を測り、近づき過ぎないようにしたし、離れすぎないようにした。友達の前では明るく振舞った。恋人にはいつも優しく接した。そしてそんな生活は、僕をへとへとにさせていた。一人のときはいつも、気持ちが安らいでいるのを自覚していた。いつごろからか、彼女がじっと僕を見ていた。


散文(批評随筆小説等) 今夜月明かりに虹を見る Copyright rabbitfighter 2007-07-18 00:58:07
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