アウシュビッツの惨劇
円谷一
荷物を取り上げられ
髪を切られ
消毒され
写真を撮られ
左腕に囚人番号を刺青されて
工場・鉄工所・炭坑で働かされて
木で作られた三段ベッドに
マットレスの代わりに
腐った藁を敷き8人で寝ていた
起床し点呼を受けると
コーヒーと呼ばれる濁った水を与えられ
労働へ向かわされ
昼食は腐った野菜で作ったスープ
夕食は黒パンと少々のマーガリン
薬草の飲み物を
便器と共通のアルミ容器で食べた
囚人の中にはSSと仲良くなって
個室とまともな食事を与えられた者がいた 便を足すには
ベッドの傍に掘られた排水溝を使用した
少しでもSSの機嫌を損ねたり
逆らったり
SSがイライラしていたら
簡単な拷問として鞭打ちや
懲罰班への入隊を余儀なくされた
懲罰班に入ると食事を減らされ
過重労働を課せられた
餓死を宣告された囚人は
裸にされ餓死室へ入れられて
死ぬまで一滴の水も
与えられることは無かった
またSS医師は僕達囚人を
人体実験の材料として使用していた
民族撲滅研究の為に
男女の断種実験をしたり
双子や身体障害者や精神障害者を使い
遺伝学や人類学の研究をしていた
他には新薬投与実験や
有害物質を皮膚に塗布されたりした
ガス室へは搬送されてこられたばかりの
働けないと認定された人々以外にも
軽い規則違反を行った者も
SSの気分次第で送られた
ガス室送りになる人々は全裸になり
密封された空間で鍵をかけられると
チクロンBを散布され
藻掻き苦しみながら死んでいった
ガス室で殺された人々は
囚人達の手によって焼却所へ運ばれ
焼却された遺体からは金歯が抜かれ
金は延べ棒にされてドイツへと送られた
遺体の灰は肥料として利用されていたが
ガス室で殺害される人数が増えると
運び出された遺体は
大きな穴へと投げ込まれ
埋められて処理された
毎日惨殺が繰り返されたが
ソ連軍が近付いていることを知った
SS隊員達は強制収容所の存在を消す為に ガス室や遺体焼却炉を爆破した
そして1945年1月27日
ソ連軍がついにアウシュビッツを
解放してくれたのである
僕達は当時の悲惨さと教訓を
決して忘れないように
大切に後世に伝えている
(参考文献 ウィキペディア)