「用意していたナイフ」−大覚アキラ「水族館」
木葉 揺

大覚アキラの詩は油断できない。
分かりやすい言葉で書かれ、親しみやすい内容かと思わせておいて、
必ず後半にドキリとさせられる。案内されるままに無防備について
ゆくと、突然振り返ってナイフを突きつけられるような感覚だ。
ここでは彼の最新詩集「heavymetaliric」より、特に気になった
「水族館」をひいてみよう。
便宜上、今回は一行のみでも「一連」と考えて進めることにする。


薄暗くて
静かで
エアコンがよく効いた
水族館で

きみは

狭い円柱状の水槽の中を
鰯の群れが
回遊し続けるのを
呆然と見つめながら

「なんか気持ち悪い」

って呟いた



銀色の鱗を
ミラーボールみたいに
輝かせながら

おそらく
あの鰯たちは
力尽きて死ぬまで
果てしなく
グルグルと
あの水槽の中を
回り続けるのだ



外は
雨が降っているような
気がする



さあ

そろそろ全部
終わりにしないか


「回り続ける」「終わりにする」からは色々なことが想像できる。
一つの人生に対しての終わりかもしれないし、輪廻に対しての終わり
かもしれない。しかし、ここでは個人的に一番強く浮かび上がった
「一つの人間関係(恋愛)に対して」という読み方で進めてゆく。

鰯の群れの回遊は、話者と「君」との堂々巡りの関係と、もう一つは、
話者の思考である。別れ話を切り出す言葉を選び、タイミングを伺うことを
繰り返す頭の中の様子が感じ取れられる。

そうとも知らずに夢中で水槽に見入っていた「君」は、突如、嫌なもの
を感じ取り、言葉を発してしまう。それが四連目の鰯の回遊に目が回った
かのような「なんか気持ち悪い」である。
この台詞を独立させて、空間で挟んだのも、話者にとって、ひるんでしまう
ほどのインパクトであることを示すためだったのだろう。しかし七連目で
もう一度、鰯の回り続ける姿に、自分の決意に基づく根拠を確認する。


そして「さあ」と、ようやく話を切り出し、躊躇したのちの最終連である。
独立した「さあ」が、とても不気味に響いている。
また「全部」という言葉に、のちに訪れる爽快感を滲ませているようだ。

この詩を何度も読み返すうち、八連目の効果に気づいた。
この連の役割は思考の中断である。雨の音を聞いた気がしたのだろうか、
ふと自分の取り巻く状況の外のことが頭に侵入したおかげで、回り続ける
思考がふと途切れ、心にゆとりが生まれて本題に入る勇気がわくのである。

この詩が、静かな不気味さを感じさせるのは、一連目と六連目の場面の描写である。
導入部分と中盤に分けて描くことで、読者に雰囲気を伝え、話の進行の途中で
思い出させている。特に六連目は、銀色の鱗の様子が刃物のきらめきを思い起こ
させたり、一層の鮮明さが、失速しがちな後半部分に迫力を添えて、見事にクライ
マックスにつなげている。

寒色系の大いなる癒しに潜む冷酷さ。この「水族館」という作品だけでなく、
大覚アキラの詩の世界、または作者自身を表しているのかもしれない。
そう考えると、いつも最終的に向けざるを得ないナイフのために、それまでの間、
自分にできうる限りの癒しや安堵を、懸命に提供してくれているのだろう。

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追記:初めての批評、下手でゴメンなさい〜〜。
批評の書き方として、これは変だ。とか遠慮なく言ってくださいまし。
あ、もちろん自分でも少しずつ探って行きます。
書いてみたくて、できなくて、こわくて、ずっとグズグズしてた私に、
きっかけを与えて下さった大覚アキラさんに感謝します。


散文(批評随筆小説等) 「用意していたナイフ」−大覚アキラ「水族館」 Copyright 木葉 揺 2007-07-11 15:40:13
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