引き出し
小川 葉

ときどき妻が
キッチンの引き出しの中をのぞいて
笑っているのはなぜだろう
中をのぞこうとして近づくと
あわてて閉めて私を追い払う
みんな眠ってから
トイレに行くふりして
開けようとした瞬間
きまって妻は
厳しい顔をして
背後に立っていて
その後、少し口論をして
眠れなくなり
私はひとり書斎に行って
読みかけの本を開く
ひとりになりたいときの
唯一の居場所
そんなときは
妻にも子供にも
中に入ってほしくない
小さな電球を点けて
ひたすら本を読む
思い出すあの頃
部屋のすみっこで
本ばかり読んでいたあの頃
ふと書き留めておきたいことが浮かんで
ノートを取り出そうと
引き出しを開ける
引き出しの中に
喫茶店で紅茶を飲んでいる
学生だった頃の私と
当時つきあっていた女のひと
カタカタ、カタタ、と
ティーカップとソーサーが
緊張してぶつかる音
あまりにも大きく
真夜中の静寂に響いたので
あわてて引き出しを閉める
あのキッチンの
引き出しの中でも
若い頃の妻と
それに私の知らない誰かが
カタカタ、カタタ、と
やっている
のかもしれない
夫婦とは
それぞれが自分だけの
秘密の引き出しを持っていて
中は決してのぞきあってはならない
そのことはわかっていても
そこに自分がいないと
思えば思うほど
妙にさみしいような
そんな気がしてきて
だけどもう
そろそろそれは
あきらめることにしよう
今夜も引き出しの中を
こっそりとのぞいていた妻が
少女みたいなな顔をして
やすらかに眠っている


自由詩 引き出し Copyright 小川 葉 2007-07-05 23:25:44
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