蜜色の夢
朽木 裕

泣きじゃくって深く深く眠るように沈む夢の淵。白い光あふれるのはいつもの台所。規則的に響く包丁のリズム。静かに終わる洗い物の水音。印画紙に写しきれなかった想いが酷く幽かな音で泣いているみたい。写真を最期に撮ったよね。明るすぎる台所からの光。眩しくて。眩しすぎて私は君の顔をよく見ることが出来なかったんだ。君泣いていたの?それともあの時、君は笑ったのかなぁ?

 「はやく致死量までアイシテクレ、」
 
 君は云い乱暴すぎるくちづけ。病的に長い黒髪からは濃密な煙草の匂い。口腔内に残るストレートのジンが私の舌を侵食する。

 「火傷するのはもう沢山なの。
不眠症者の戯言もそろそろお終いにしてくださる?」
 
 私は君など愛していない。私が好きなのはあの雨の日に震えながら縋り付いてきた白い方、だ。写真を撮ることがとても好きで何処へ行くにも首から一眼レフをぶらさげて。綺麗に撮れると真っ先に見せにきた。「綺麗だね」って云うと目をキラキラさせて犬みたいに喜んでいた。私の言葉を存在を世界で一番待っていたみたいに。

 幾日か眠れずにいると、私が好きな白い方は、不意に居なくなる。居るけどいない。居ないけれど、いる。透き通った綺麗なグレイッシュの瞳は狂気を孕んだ目になって、ぼうっとした間の抜けた動きは活動的に暴力的になる。

 「煩い、お前さえ居なければ、」

 云いながら彼はガツン、と目の前の何かを蹴散らした。彼の大事な、カメラを一機。黒い方は嫌い嫌い大嫌い。粗野で酷く不愉快な空気を纏うから。

 「死ねばいいのに、」

 溜息と共に絹の如くするり言の葉。これは黒を眠らせる魔法の言葉、だ。起きたとき彼が白に戻るとは限らないけれど。だって彼はあの日以来帰ってこない。あの、台所で、写真を一緒に撮ろうって、並んで、セルフタイマーを設定して、あれ、シャッター下りないじゃん?って二人して顔見合わせたときに下りたシャッター。和やかに笑いあって、今日これ現像したいなぁって云って、立ち上がって、台所に立って、振り返ったら手に包丁。

 それからは血みどろで。あたし、よく生きてたもんだ、と我ながら思う。鎖骨のあたりに切っ先を突きつけられて、恐怖で声も出なかった。なんでなんでなんで?こんなに大好きなのに、私達こんなに愛しあっているじゃない?どうしてどうして。分からないよ。ジンかウォッカ飲まされたみたいに、ひりひり焼ける喉。手足がパニックでおかしな動きをしながらも、ただ逃げ惑った。死にたくないあたし死にたくないよ。

 気付けばきらきら綺麗な刃物は私の手に在って、君は二人分の血溜まりのなかで横たわってた。静かに。死んでるの?問う声に答えはノー。私はそれ以来、黒に暴力を浴びせられている。屈する心算も毛頭ないけれど。

 「死ねばいいのに、」

 もう一度呟いてみる。不健康な黒髪、灰色の瞳を覆う長い長い睫毛。糸が切れた傀儡のように眠り始めた彼は無害で無力で酷く愛くるしい玩具に成る。

 「私の白は何処にいったの?返してよ」

 本当は知ってた。全部。お気に入りの玩具に飽きて壊したのは私。壊れかけの玩具に牙をむかれて終わりにしたのは私。精神を狂わせて眠りを妨げて私以外見えなくさせて捨てたのは私、だ。

 「でもさ、もうちょっと付き合って欲しかったのに」

 色々したいことあったんだよ。君がいつも魔法みたいに作ってくれる料理、教えてもらおうと思ってた。君の撮りたいって云ってた写真、君が納得いくまで何も云わずに傍にいようって思ってた。幸福の味がするって云ってた蜂蜜の味、一緒に舐めれば良かった。

 「…私、君のことが好きだったんだ、」

 今更、気付くなんて馬鹿みたい。もう君は居ないのに。もう二度と帰ってこないのに。
君は終わりにしたんだ、あの時あの写真の中で。泣きながら笑っていたんだ、きっと。あの時の君は。

眠りは深く緞帳を下ろして、黒をも目覚めさせはしなかった。口元に僅かな微笑。私は蜜色の夢の中、眠りにつくことにした。


散文(批評随筆小説等) 蜜色の夢 Copyright 朽木 裕 2007-06-30 00:52:19
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