自分の名前を失くすはなし
Utakata



自分の名前を失くしてみた

自分の名前をてのひらにのせる
初めてちゃんと手にとってみたそれは
案外に硬く
今までそれを身に付けていたにしては
まだ馴染みきっていないような感じがした
(もっと柔らかくて 体温みたいなものがあるんじゃないかと
 思っていたのだけれど)

こっそりと
自分の名前を机の上に置く
一人きりの部屋の中で
木製の机とそれが触れ合うと軽い音がした
机に置いた手を離して
自分から離れた自分の名前をためつすがめつする
ときどき部屋を見渡して
自分以外に誰も部屋の中にいないことを確かめてみる
こうしている今
自分は名前を失くしたのだと
自分の身体とそれとの間にある
数十センチの透き間のことを思ってみる
(五分ほどそれを眺めた後
 それを手にとって
 ポケットに入れた)

街を歩く
ポケットに軽く手を触れたままで街を歩く
たまにポケットから手を離して
十歩ほど歩いた後で再び手を触れる

バスを待つ間
ポケットからそれを取り出す
取り出して慎重に手でもてあそぶ
こっそりと
こっそりと
(運転手は何も言わずに
 他の人と同じようにバスに乗せてくれたけれど)

バスの座席にそれを置き忘れてしまいたいような衝動に駆られる
こっそりと
うっかりと
例えばそれは
街の伝言板に 嘘の待ち合わせを書いて
やって来る人がいるのかどうか
約束の場所で待ってみる そんな気持ち

 友達に電話をする
 ――元気ー?
 ――最近忙しいんだよねー。
 ――あの映画見た?
 ――今度また遊びに来てよ。
 ――どっか旅行行きたいなー
 ――こないだアイツに偶然会っちゃったよー。
 ――ねえ、なんで笑ってるの?
 (「べつにー」)


夜の公園へ行く
すぐ脇を川が流れている 小さな公園へ行く
夜の公園には誰もいない
川にかかる橋の真ん中まで行って
ポケットの中から自分の名前を取り出す
川の下流側の遠くに眼を向けて
このままこれを川へ流せば
本当の旅が始まるということを知る
海まで行って
海流に乗って
きっと他の大陸のどこかに流れ着くのだろうということを知る
それを見つけ出すための自分の旅が
今この瞬間から始まりうるのだということを思う

(でも
 何かをするには犠牲がつきものだけれど
 犠牲をはらうために何かをするのは
 馬鹿げている
 もちろん)

それを川に向かって投げるふりをする
きっぱりと
全力で
海へと届くように投げるふりをする

投げるふりをしおわった後で
手の中に当たり前のように残っているそれを見て
軽く握ったりなんかして
もう一度川の向こうのほうを見る
再びそれをポケットの中に入れて
家へ帰ろうと橋に背を向ける

なんで笑ってるのー。
べつにー。
そう呟いて、僕はもう一度、すこしだけ笑う。

自分の名前を失くしてみる
ときどき
こっそりと
こっそりと。


自由詩 自分の名前を失くすはなし Copyright Utakata 2007-06-17 20:27:21
notebook Home 戻る