逃げ水
umineko
すべての作品は、過去。
自分は感情という生き物が好きだ。でも、どんな感情も結局は過去で、文字にした瞬間、それはもう古代エジプトの遺跡と同列の過去の遺物。
あるいは。表出ということ自体がなんらかのメッセージであるということ。どんな歌も、絵画も、なんらかのメッセージを含む。常人には理解し難いような前衛芸術だって、既存の価値観を破壊せよというメッセージ。
先日、自分がこの世界から消えてしまったとき、というものをテーマにして作品を書いた。それは、こっち(現代詩フォーラム)には載せずに、他の投稿掲示板に置いてある。それにももちろん意味がある。
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緻密な計算だったり、一瞬の気の迷いだったり。私たちは感情とともに生き、それに左右される。私たちの営む世界というのは、そのファクターで大きくぶれてしまう。感情労働という用語もあるらしいが、はっきりいって感情なく生きることは不可能だ。どんなに単純な作業であったとしても。
たとえば、ハートウオームな作品を書く。書いている瞬間、私の内部にはそれを裏付ける感情があって、それは嘘ではないのだけれど、書き終えた瞬間、それは過去で、さらに推敲でもしようものなら、冷徹な編集者の目で作品は削がれていく。
さらに作品が出来上がったとして、それをどのタイミングで、どの場所に送り出すのか。ネットなのか、紙媒体か。
どんなふうな私を、世界に提示したいのか。
たとえば、書き手としての私は、コミュニティでどんなふうに生きていくのか。
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自然体が一番っていう人もいるけど、そうかな。本能のままに生きろっていうなら、好きなとき食べて、好きなとき眠るだけ。学校も仕事も、すべて自分達が妄想したシステムであって、自然じゃない。だから学校にも行かなくていい。お腹がすいたら、コンビニの菓子パンでも食べるよ。万引きっていうのは貨幣システムを維持するための禁止事項であって、自然体であるというのは、そういった食物の摂取に対しても自由であるということ。
私の欲しいのは、そんな世界じゃない。
ぎゅうぎゅう詰めになって、規則や張り紙でがんじがらめで、でもその中で、(私は何?)って見届けながら私はいく。
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私は基本的には草食動物的な臆病さで世界を食んでいる。愛を放射することはあからさまに無防備になるって知ってるから基本的に愛は苦手。痛手を負ったときに、立ち直るまでかなり時間とエネルギーを浪費することはわかってるし。だからこんなに詩を書いてるんじゃないか。
今、空がとてもきれいに晴れていて、抜けるような青が頭上に広がっていたとしても、天気予報は必ず言うだろう。(…次第に西の方から下り坂に向かうでしょう。)天気予報に頼らずとも、私たちはそれを知っている。
空が青い。でもそれはすでに下り坂だ。
私は歌う。でもそれはすでに過去。
日傘をさしながら、どこかで雨を予見している。
悲しい詩を書く。それは終焉に向かうから。
やさしい詩を書く。それはすでに絶望だから。
あなたは私をとらえられない。影ふみのように私は逃げる。
私はどこかで。
液体かもしれない。