この日ごろ、季節の風が吹くように、ふっと立原道造の詩のきれぎれが頭を掠めることがあった。背景には浅間山の優しい山の形が浮かんでいる。白い噴煙を浅く帽子のように被った、そんな山を見に行きたくなった。
ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした……
ぼくも灰の降る土地で育った。
幾夜も、阿蘇の地鳴りを耳の底に聞きながら眠った。朝、外に出てみると、道路も屋根も草木の葉っぱも、夢のあとのように、あらゆるものが灰色に沈んでいた。
だから、静かに灰の降る土地に親しみがあった。林の上に沈黙する活火山がある。そんな風景のなかで詩を書いた詩人に、特別な親近感をもった。
立原道造は昭和十四年三月に、二十五歳の若さで死んだ。たくさんの美しい詩を残した。
道造が生涯を終えた年頃に、ぼくは新しい生活を始めようとしていた。ぼくは一編の詩も書いてはいなかった。ただ、道造の詩を愛読するひとりにすぎなかった。浅間山と、軽井沢追分の地名と、幾編かの詩の断片が、青春の熱のようにぼくの後頭部を熱くしていた。
ぼくたちは汽車に乗った。
うららかに青い空には陽がてり 火山は眠ってゐた
――そして私は
夜遅く着いた軽井沢のホテルの食堂に、ふたり分の夕食だけが残されてあった。そのテーブルに向かい合って座ったとき、ふたりの生活が始まったと思った。
宿泊客がほとんどいない五月のホテルで、二日間、ぼくたちは食事時間以外は忘れられた客になって過ごした。
それは 花にへりどられた 高原の
林のなかの草地であった 小鳥らの
たのしい唄をくりかへす 美しい声が
まどろんだ耳のそばに きこえてゐた
部屋の前には林と広い芝生の庭が広がっていた。それがゴルフ場であることも知らなかった。終日、芝生の上に寝転がって、聞いたこともない珍しい鳥の声に驚いていた。木々が密生した林の上に、青い空に消え入りそうな優しい形をした山があった。それが浅間山だとはじめて知った。
吹きすぎる風の ほほゑみに 撫ぜて行く
朝のしめったそよ風の……さうして
一日が明けて行った 暮れて行った
続いてゆく日々の、毎日が明けて行った、暮れて行った。
子どもが生まれ、厳しくなった東京の生活を離れて大阪へ移った。慌しさに時を忘れ、詩を忘れた。十年間、生活のために不本意な仕事に耐えた。やがて、自分がいちばん大事と思い直し、やりたかった好きな仕事に転向した。家族も増え、家も車も買った。
さらに、毎日が明けて行った、暮れて行った。
子どもが家を出る。コンピューターを使ってこなしてきた仕事を、こんどはコンピューターに奪われてしまった。ぼくは仕事をなくし、同時に家も車も失った。
妻はぼくに、もう何も期待しないと言い、ぼくは解放された。ぼくも妻を解放し、ぼくたちは貧しさと自由を得た。だが、ぼくたちに何が残っているのかは分からない。ぼくは詩を思い出し、少しずつ詩を書き始めた。
しづかな歌よ ゆるやかに
おまへは どこから 来て
どこへ 私を過ぎて
消えて 行く?
ふたたび五月。
何十年ぶりかに軽井沢を訪ねた。青く湿った風に吹かれたいと思った。貧しかった若い頃に、ぼくの魂は帰りたがっているようにみえる。
ひとよ 昼はとほく澄みわたるので
私のかへって行く故里が どこかにとほくあるやうだ
そこには、変わるものと変わらないものがあった。
林の木々はやわらかい緑に染まり、鳥たちは、甲高く透き通った声でしきりに鳴いている。浅間山は、懐かしい記憶のかたちのままで蘇ってきた。
ああ ふたたびはかへらないおまへが
見おぼえがある! 僕らのまはりに
とりかこんでゐる 自然のなかに
ひとよ
いろいろなものがやさしく見いるので
唇を噛んで 私は憤ることが出来ないやうだ
*文中の詩はすべて、立原道造の詩集の中から断片を引用したものです。