雑感1
松原 台
雑感1
D80を買ったのが五月の連休前だから、まだ一月足らずしか経過していない。
この一月あまりのあいだ、私は、このカメラを携え、東京都内のさまざまな場所に赴いて、撮影行為に没頭した。
被写体は、町並みである。
記憶として脳に残るのは、せいぜい数日だろうと思われるような、何の変哲も無い、街の風景。
それらの大半は、現在、プリントされることも無く、ハードディスクのごみ箱の中に、完全に消えうせる一歩手前の状態で、留まっている。
消去するか、それともしないのかの判断基準は、甚だあいまいなものである。
その内容を、言葉で表すことは難しい。
消去されずに残る画像というものは、こちらに、確信、というか、何か強い気持ちを起こさせる力を宿している、とでも言えばよいのか。
消去から免れて、紙媒体にプリントされた写真の中にも、時間がたつにつれ、輝きの喪われていくものがある。
物理的な問題から、私はこれらの写真もまた、思い切って棄ててしまいたいと思う。だが、ひとたびモノと化した写真は、そう簡単には棄てることができない。写真自体が持っている物質的な存在感に、私の心が惑わされる為である。特に、モニター機能の無い銀鉛写真の場合には、プリントをした後で、その写真の出来不出来を判断することが多いので、尚更棄て難くなる傾向があるように思う。
さまざまな場所の町並みを撮影した画像を、ハードディスクに保存する作業を行いながら、私が常に考えているのは、あるいは、(いかに良い写真を残すか)ということよりも、(いかに自分にとって不要な画像をすみやかに消去していくか)ということなのかもしれない。
この推論は、デジタルカメラのモニター機能が、撮影者が撮ったばかりの写真に対して、優劣の判定を下す事ができるという、新たな選択肢を生み出したということと、無関係なことではない。
撮影者にとっての「良作」あるいは「駄作」にたどり着くまでのプロセスが、デジタル写真と銀鉛写真とでは、異なってきているのかもしれない。