抑圧された記憶
はじめ

 誰かのことが思い出せない
 交通事故のショックであなたは自分を守る為にある記憶を抑圧されているのです と入院先の医者から言われた
 僕は何の記憶が抑圧されているのか色んな人々に聞き回った しかし誰も答えることができなかった 人々は何か隠し事をしているように思えた
 僕はある日医者に本当のことを話して下さい と懇願した すると医師はとても青ざめた表情で首を振りしばらくして答えた あなたは愛する人を失ってしまったのですよ と
 僕の脳裏に交通事故の瞬間の映像が突然溢れ出てきて 僕は恐怖のあまり頭を抱えて縮こまった そしてある美しい女性の姿がぽつりと浮かんできた
 今脳裏に映った女性は誰なんですか? と僕は医師に脅えるように捕まった 医師は僕に言ったことを後悔しているようで 額から出てきた汗をハンカチで拭くと 僕には長く感じた溜め息を吐いて こう言った
 確かに真実は伝えなければなりませんね あなたとその思い出された女性は婚約していたんです 結婚式の前日 結婚式の下見の帰りの視界の悪い雨の中 あなたの脇見運転で事故を起こしたんです 助手席にはあなたの婚約者がいた 幸いあなたは脳震盪だけで助かりましたが 婚約者は打ち所が悪くて帰らぬ人となりました 病院の人達は あなたのことを思ってずっと黙っていたんです 許してやって下さい あの人達は何も悪いことはしていないのです と
 僕は話の途中で全てを思い出し 発狂しそうなのを必死に抑えて両手を強く握り締めながら涙を流し すみませんでしたと深々と頭を下げた 数日後僕は退院し 数年間刑務所で服役していた そして出所後 合わせる顔などないままに彼女の遺族達に会いに行った そこで散々罵倒雑言を浴びせられて外に弾き飛ばされた 彼女の妹だけは僕の味方だったようだが遺骨の前で拝ませてもらうこともできずに もう二度と来るな と檄を飛ばされ扉を思いっ切り叩きつけるように閉められた 僕は心に深い傷を負ったまま彼女の街をあてもなく彷徨い続けた 会社を辞め 勘当されて飛び出した家にはただすまなかったと電話を入れ 港の見える公園のフェンスに体を預けた 貨物船のサイレンがけたましく港に鳴り響く 僕は煙草に火を付けてふぅー っと長い溜め息を吐いた 街は暗くなっていった 僕は泣いていた 大小様々なビルのテールランプが点滅する 寒さがジャンパーの襟をしぼめさせた
 辺りが真っ暗になって 激しく泣く僕は煙草の煙でむせ込んで鼻水を地面に垂らした 刑務所で擦り切れるほど思い出した彼女との思い出 走馬燈のように蘇ってくる 僕が殺したんだ 僕が殺したんだ フェンスに両拳をどんどんと叩きつけて僕は泣き崩れた 彼女の笑みが目に浮かび 現実がごぉ と鳴っていた 僕は孤独の檻に入れられた気分になっていた 僕は力無く立ち上がり 今夜泊まるカプセルホテルを探した ベッドの中で僕は絶えず色褪せた彼女との思い出を思い出していた 僕は涙を堪えて今も消えない後悔の波が引いていつかぐっすりと眠られる時が来ることを願って瞳を閉じた


自由詩 抑圧された記憶 Copyright はじめ 2007-06-09 04:01:03
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