「しゅき」の記憶
umineko
以前、「しゅき」っていう作品を書いたことがある。
* * * *
「しゅき」
あなたの胸に頬をあずけ
うっとりと夢見心地で
すき、って言おうとしたんだよ
するとなんだか可笑しくなって
よだれがこぼれそうになり
あわてて口をついた 言葉は
しゅき
ああ
しゅき
これなら照れないで
何度でも言える
しゅき
しゅきだよ
大しゅき
ごめん
重症だ
* * * *
自分ではかなり気に入っていて、(これは気合いをいれて投稿しなくちゃ!)って、当時詩関係では飛び抜けてクールなサイトだった「Zamboa」に送った。担当の方が詩評を下さるっていうのも、すごく楽しみだった。
で、そのときのコメントなんですけど。こんな感じ。
* * * *
「何を、読み手に感じてもらいたいか。
読み手は、この作品を、もう一度繰り返し読むのだろうか。
言葉が、ながれている。
自身の言葉が見当たらないから重みがない。」
* * * *
一瞬、パソの前でフリーズしてました(笑)。なんてゆうか、箸にも棒にもかからないっていうか。この作品では、私のほんとうがとどかない、ということ。うむむ…。
「好き」を「しゅき」と言い換える。作品の巧拙はともかく、そのエッセンスを届けたかったのだけど、それをうまく、自分の中で説明できなくて。ちょっと腹立たしく思ってた。
今なら、わかるよ。
「しゅき」は「好き」のメタファであり、その感情はメタファでしか伝えられない。ということ。
詩を書くときに、いわれませんでした?(悲しいとか、楽しいとか、そういった感情を直接表わす表現は避けましょう)って。(それを別の形で表現しましょう)って。
それってさ、実生活とは真逆じゃないですか。スタンスが。ことばの本質からしても。だから詩は、現実から遠い。
だけど、ね。
メタファでしか伝わらない気持ちがある。
好き、ということば。そのことばのもつ可能性と、ナイフのようなさみしさと。ことばにしてしまえば、それ以上の高みには。もう私たちはとどかない。
伝えない。あるいは、伝えられないという重み。
私がいいたかったのは。それだけ。