死神の名付け親
ヴィリウ

わたしの人生は、あなたにもう一度逢う為のものでした。
かつて子供だったその男は、深く皺の刻まれた顔にうっすらと笑みを浮かべて云いました。
よく、生きた。
彼は静かに云いました。その声は、暮れかかる夕闇の様でした。
男は大きく頷き、あなたが、と続け、ひとつ呼吸をしました。
「あなたが呉れた名前があったから。辛いことがあっても、この名前が寄り添って呉れたから」
わたしは生きられたのです。
男の目から涙が零れ、しかしその唇には晴れやかな笑みが輝いていたのでした。
「よく生きた」
彼はもう一度そう呟き、漆黒の衣の袖から腕を出して男の頭を撫でました。まるで小さな子供にそうする様に。男はゆっくりと、万感の想いをこめる様に目蓋を閉じ、ひたひたと涙に濡れる目を開けました。その時、男は幼い少年になっていました。

あなたに生かされたのです。
あなたがわたしを、ずっと此の世に繋ぎ止めて呉れたのです。
悲しいことがあっても。
苦しいことがあっても。
それでも多くの幸せに彩られた日々でした。
少年の声は高く澄み渡り、彼はひとつ首を振って夕暮れの声で返しました。
「御前の人生は御前のものだった。私は御前に名を与えただけ」
少年の目が細まり、淡い笑みを形作りました。それは長い人生を超えて達観した様な、老いた表情でした。
「あなたが名を呉れた時、わたしに生きるようにと云って下さいました。あなたがそう願って呉れた、わたしにはそれが何よりも嬉しかったのです」
以来命の最期まで、この言葉はわたしと共に在りました。
そう云って少年は、はらはらと涙を零しました。
彼はそっと指で少年の頬を拭いました。温かな涙でした。

もう、時間だ。
彼は宵闇の声で少年を促しました。
はい。
少年は小さく答えて、そっと彼の闇色の衣を引きました。
彼は少年の前に膝を折り、顔を寄せます。少年は小さな唇で彼の左の目蓋に口付けし、行って来ます、と囁きました。
彼も少年の額に唇を落とすと、行っておいで、と夜の声で呟きました。
少年は糸紡ぎに似た輪廻に向かって歩き出します。
彼はその後姿が細くなり、小さくなり、曖昧になってやがて闇に溶けるまで、長くその場を動きませんでした。
かつて彼が一度だけ、その永遠の命の中で名前を贈ったたったひとりは、こうしてその生涯を終えたのでした。

永く喜びに満ちた人生を送り、彼にまぎれもなく純粋で、一途な愛を捧げた子供が輪廻に消えても、彼はその糸紡ぎの様な輪が廻るのを見詰めていました。
次に生まれて来ても、彼のことは覚えてはいません。広げたまっさらな人生の、その白い絵図に、彼が何かを記すことはもう、未来永劫ないのでした。

闇の向こう、輪廻の輪が廻っています。
彼は少年の気配すら追えなくなったことを確認して、その場を立ち去ろうと背を向けました。
その時、彼の左目から一粒、小さな涙が零れ落ちました。受け止めた彼の手のひらの中でそれは一瞬光り、やがて消えてゆきました。
その温かさを感じて・・・・・・、彼は見えない何かを抱くように、両腕を交差させました。そして深い黄昏の声で、少年の幸福に満ちた生涯を願ったのでした。

その願いこそ、久遠の時をただ一人でただよう彼がもう、決して独りではないという証なのでした。


散文(批評随筆小説等) 死神の名付け親 Copyright ヴィリウ 2007-06-06 19:03:42
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