新しい魂
草野春心



 ある朝Aが目覚めると、木製のテーブルの上に竹籠が置いてあり、その籠一杯に林檎の果実がどっさり詰まっていた。前の晩には何も置かれていなかった。ただ一面の空白意外には、何も。
 全体さっぱり分からなかった。カーテンを開けたAは、世界が変わらず朝を迎えていることにむしろ腰を抜かした。相変わらずそこはマンションの二階で、部屋は東向きで、申し訳程度のベランダと、沈黙を蓄えたサボテンの鉢と、見下ろした小さな公園も、やはり元のままだった。

 *

 男は信じていた。昨日までの自分。昨日までの世界。昨日読んだ新聞の内容、見たテレビの画像、食べたチーズバーガーの味。いらだちとよろこびに彩られた、昨日までの生活・・・それが突如、得体の知れない問いかけとなって自分を圧迫しようとしているのを、Aは肌身に感じていた。
 それは、魂と歴史の戦いだった。宿命と呼べばよいのか、業、と一文字で言えば足るのか、Aには分からなかったがしかし、ただ重厚で、濃密で、血の匂いの微かにする、・・・生き物のような・・・不安だけは分かった。

 *

 生活。
 人生。
 この二つが毒蛇のように絡まりもつれながら、Aの魂を締めつけた。飼いならしているとばかり思っていた怪物。ああ俺はこの蛇に殺される・・・
誤魔化していた。その場しのぎを繰り返した。知ったかぶりをしていた。ああ俺は俺の魂に嘘をついた・・・
 テーブルの上に林檎。それは生活を、人生を・・・魂を選びとる権利だった。ああ!待ってくれ。まだ俺は一度として、真実を語りえていない。・・・待て、待ってくれ!!

 *

 太陽の不敵な輝き。五月の見事な新緑、その色と薫り。永遠のように響く子等の声。ひとりでにゆれる公園のブランコ。
 そのすべての、外側に、かつ内側にAは住んでいた。彼は新しい魂を信じた。生活には真実の潤いが、人生には真実の賑わいが還ってくるだろう。




自由詩 新しい魂 Copyright 草野春心 2007-06-03 19:00:21
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