メトセラ抄
楢山孝介

メトセラ(Methuselah)旧約聖書に登場する、九百六十九歳まで生きたという族長の名前。
 
自分が千年近く生き続けることになるなどと
知るよしもなかった少年時代のメトセラ*1
酷く臆病な子供だった
死ぬのが怖くて
怪我をするのが怖くて
傷つくのが怖くて
同世代の少年たちのように
塀の上を歩いて勇敢さを競ったりしなかった
無邪気に遊び回り転げ回ったりしなかった
友達を作ったり、少女に恋したりしなかった

やがて成長し歳を取ってからのメトセラは
臆病を通り越して感情を忘れてしまった
祖父母を亡くしても
死んでしまったなと思うだけだった
両親を亡くしても
涙を流すことが出来なかった
妻が自ら命を絶っても
恋しても愛してもいなかったので苦しまなかった
一族の長に祭り上げられても
嬉しくもなかったし楽しくもなかった
後悔も悲観もしなかった

そうして九百六十九年生き続けたメトセラだったが
世界を覆う大洪水がやってくるという噂を聞いた途端
溺れ死ぬのはかなわないと思ってか
「ならば、今」と一言呟いて
ぽっくり逝ってしまった
彼の死は誰にも悲しまれなかった


*1 メトセラ(Methuselah)旧約聖書に登場する、九百六十九歳まで生きたという族長の名前。



自由詩 メトセラ抄 Copyright 楢山孝介 2007-06-02 00:28:12
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