鮭缶
小川 葉

下山の途中
私はひとりの老熊に出会った
老熊は土に杭を打っていた
私は気づかれないように迂回して回ったが
思いがけず鳴ってしまった熊鈴に気づいた老熊は
私に向かってにこりと微笑みかけた

何をしてるんですか

私は問いかけた
杭に板を打ち付けた老熊は
その板に鋭い爪で文字を刻みながら
私に話しかけた

人間たちがこの山に遊びにくることに
私はそれほど嫌悪感を抱いてはいなかったのだ
しかし時代が変わってね
人間がこの山に落としていった美味しい食べ物
その味を知ってしまった若い熊たちはもはや
山の幸だけでは満足できなくなってしまったのだ

板に刻み終えた文字を老熊が読む

人間の皆様へ
もう山へは来ないでもらいたい
もしどうしても来たければ
我が子孫たちへあなたがたの際限のない欲望を
植え付けることだけはやめてほしい
あなたがたの欲望が感染してしまった我が子孫たちは
熊としての本来の生き方あり方を見失いつつある
その欲望のために我が子孫は
あなたがたにすでに迷惑をかけはじめている
冬眠前の季節に若者たちは麓の里へそこには
より美味しいカロリーの高い食べ物が
あることを知っている
そんな彼らをあなたがたは射殺する
だからもう山へは来ないでほしい
もしどうしても来たければ
私を殺してからにしてほしい
そのような悪夢をこの年老いた熊は
もう見たくない

その時すでに
私のまわりを血気盛んな
若い熊たちが取り囲んでいた
よだれを流して
今にも飛びかかろうとしている若者たちの目的は
私の荷物の中の美味しいカロリーが高い食べ物なのだろう
殺されることを覚悟した私だったが
老熊が若い熊たちに一喝したため助かった

すごすごと撤退していく若い熊たち
憎しみに満ちた彼らの目は
下界の人間たちの欲望の目にまったく似ていて
私は新しい種類の感覚の恐ろしさに体を震わせた

あなたがたの世界にも
まだ私のような邪魔者が
いるといいのだが

そう言い残して
さびしい野生の目をした老熊が
消えるように去っていった
山桜の散る晩春の出来事だった

その年の秋

麓の里で熊が射殺された
骨と皮だけになった無惨に年老いた熊

留守中の民家で食べ物を盗んでいるところを射殺された
手に鮭の缶詰を何缶も握っていたその熊はまぎれもなく
あの晩春の日に出会った老熊だった


自由詩 鮭缶 Copyright 小川 葉 2007-05-23 23:31:30
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