詩と恋愛
プル式

散文というもの自体、まともに書く事は初めてです。
と言うことを先に述べておきます。いや、前に一度書いた気もする。
ま、その程度です。

詩において恋愛のポジションと言うのは割と大きいものである。と、僕は認識している。
それは、一番身近な、心の動きでありえる、と捕らえているからだ。
もちろん、その他に身近な変動、揺らぎが無いか、と言うとそう言う訳ではなく、むしろ選らばなければ、というか、拾える様になれば恋愛を常にしている人間は少ないわけで、その他の事柄の方が日常に溢れている、と言う事は知っている。が、今回は別の話。それに、恋愛は劇的というか、飾りやすいのである。僕のような凡人にとっては。

さて前置きは終了。
長々と書く気がないので取り方はお任せする事をさきに。

今回書きたかったのは、恋愛における詩の用途、欲望、エロチシズム、と言う話。
某所で書いたが、僕は詩を割りと回りに公表している。職場はもちろん、付き合う彼女たちには、必ず、と言っていい程詩を見せる。これは別に「詩に自信があるからそれで口説こう」と言うわけではなく「僕は日常こんな事を考えている人間だ」という事を知らせる為である。ついでに言うと、詩は恋愛において武器になりえる。どの様にか、と言う事は説明しがたいのだが、基本的に相手に詩の朗読などと言う事はしない。そうする事は多分、逆効果をもたらすだろうから。もちろん、付き合う前に「君の事を考えて作った」というものも送ったりはしない。ではどの様にか、というと、実にそっけなく「書いてるんだ」という事実を伝える。実際それだけで引く人間は居ない。大体においては。それで引くならそれまでだろう。むしろ付き合ってから先が別の意味で思いやられる。
大体の人間は詩と言うものを書いていると言うと多少の興味を示す。様は見せ方、伝え方の問題なのだ。僕は絵を描くのだが、絵も同じで、いきなり「絵を見せてやる」といって持ってこられても対処の仕様が無い。相手が自分のフィールドに入らない限り、効果どころか逆効果になり「あの人は絵を描く」という認識はされても「あの人の絵に興味がある」とはなら無いのだ。むろん詩も同じで、というか詩の場合は偏見を一般的にもたれやすいので特にそうなのだろうが。

少し詩情の話しに触れるが(といっても詩情論ではない。あくまで恋愛における、という事)恋愛をしている最中というのは詩情をおおよその人はフルに発揮しているのではないだろうか。今まで何とも無かった場所が「パラダイス」になりえたり、居ないだけでいきなり「世界中の孤独を背負って」しまえるのである。また、個人的な立場から言うと「妄想」をしてみたり「イメージ」を募らせてしまう。また自慰行為、性行為に置いて相手の事を愛おしく思ったり、目線が日常のそれとは別に「美化」されていく。そういった行為の最中に「あの人の此処が醜い」という意識は(まぁ、ある種の人間は逆の様だが)消し去られている。僕が思うに、詩情というのはそういった「出来事(あるいは日常)」を切り取り、他の説明を削っていく行為だと言える面を有する。それを多くの人間は勝手に行い、また詩人と言う人間はある種意図的に行っている。そうしてそれをどの方向に「見せるか」によってのみ、違いが有るのではなかろうか。あ、詩人と詩人で無い人ね。
補足するなら、ベッドトークに置いても詩的な言葉は有効だと認識している。ついでに、詩的と比喩というものはとても近しいものだと思っている事を述べ、この記述を終わりにする。


あ、説明不足はいっぱいあるから好きに捉えてもらえればありがたいです。


散文(批評随筆小説等) 詩と恋愛 Copyright プル式 2007-05-22 21:41:00
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