山岳地帯(マリーノ超特急)
角田寿星
ここでは稜線をつよくなぞるようにして吹きつける風が、けし
て浅くはない爪跡を至るところに残している。砂混じりのかわ
いた大気に、あれた山肌に、つつましい色を放つ丈の低い植生
群に、かるくひび割れたぼくの頬に。その風は海から届いてき
たのだと悟るのに、それほど時間はかからない。
空気は乾燥しているが照り返しは激しく、汗で濡れたシャツが
背にうっすらと張りついている。ぼくの、岩々のみじかい影、
束の間のコントラストを、一匹の蜥蜴がいそがしく這いまわり、
時を置かずに真昼の陽光に溶けて消える。ぼくはそれと会話を
交わすこともなく、足早に通りすぎる。
尾根をつたう道の眼下にひろがるのは見渡すかぎりの深いみど
り。人の立ち入ることを許さない暴力的な森が、生をどこまで
も謳歌するかのように、海からの風を受けてざわざわと波打つ。
いちめんのみどり、わずかなうねりは驚くほどにその色合いを
変え、幾億もの兎がみどりのうなばらを走り去っていく。
山岳地帯。ここはいちめんの森に浮かぶ孤島。
視界はこんなに広がっているというのに、海はどこにも見えな
い。
屹立する断崖を背に、わずかに広がる荒れ地をたどる。ばらば
らになった材木のかけら、不揃いに並べられた大小の四角い石、
それらはかつて人の住んだぼろ小屋の痕跡だということは、当
人でなければ判るすべもない。
ここにはかつて子どもたちが住んでいた。親に見捨てられた、
他の世界を知りようもない、兄弟かどうかさえわからない子ど
もたちが。干した草の根をかじり雨水をすすり、数少ないぼろ
布を奪い合って、そして弱く幼いものから少しずつ死んでいっ
た。生き残った子どもは死んだ子どもたちを埋め、その死骸か
ら花は咲かず、果実はみのらなかった。
森のはるか向こう、見えない海を南に縦断する特急列車がある
と、旅の手すさびに幾度も聞いたことがある。或るものは、そ
れは人類に最後に残された技術の集大成だと語り、また或るも
のは、それはサハリン製のラム酒に呑み込まれた愚か者がみた
あわれな幻影だと語る。或るものはそれはあまりに早く通り過
ぎるがために肉眼では見ることができないまぼろしの列車だと
語り、或るものはそれは真夜中に音さえもたてず秘められたま
まに走り去っていくのだと語る。南へ。南へ、南へ。ここでは
ないどこかの駅から、ここではない彼方の駅へ。ぼくは海洋特
急を折にふれて思いだし空を見上げる。
ここは山岳地帯。麓に唯ひとつ横たわる駅はみどりに浸蝕され
かけて、ぼくらの列車は山を登ることも森を渡ることもかなわ
ず何年も立ち往生している。
ほそながい雲がすごいスピードで頭上を駆け抜けていく。雲は
山頂近くの風に襲われて、出来損ないの有機物のように拡散し
て短い生涯を終える。そしてその風は海から届いてきたのだと
悟るのに、それほど時間はかからない。
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