新川和江氏への手紙 〜名詩を読む②〜 
服部 剛

 今僕は、「生きる理由」という詩集を開き、アンソロジーである 
この詩集の最後を飾る「はたはたと頁がめくれ・・・」という詩を
読もうとしています。海を見る時に何を想うかは、その年齢によっ
ても感じ方が違うものでしょうが、この詩を読み始めると、初老を
迎えた独りの女性詩人が浜辺の岩に腰かけて、潮騒に耳を澄まして
いる情景が浮かんで来ます。 


はたはたとページがめくれ・・・ 

         新川和江 

波打際に 
日にいちど わたしが 
腰をおろしにくる岩がある 
岩はいつからここに在るのか 
たぶん 海と陸地が 
分かたれた日から 
ここに 位置づけられていたのであろう 
干満の差の少ないこの湾岸では 
みち潮の時にも 
すぐそばまで波はくるが 
岩までは 届かない 
サンダルを履いたわたしの 
つま先さえ 濡らすことは無かったのだ 
雨でも降らぬかぎり 
岩は一日ぢゅう乾いている 
千年前にいちどだけ 
波の舌が岩の根にふれたと 
考えるのは あまりに浪漫的である 
わたしはひととき 
ここで潮風を深く吸いこみ 
少しばかり書物を読む 
はたはたと頁がめくれ 
またたく間に 千年が過ぎてゆく日もある 
次の日もきてわたしは又 
さかしらに書物をひらくが 
わたしには 何ひとつ読みとることができない 
読みとることができぬままに 
やがてわたしは 
いずこへか 連れ去られるのであろう 
乾いた岩の上を 
さらに千年が過ぎゆき 
それが岩にとっての 
今日であることも 悟り得ずに
 


 「日にいちど 腰をおろしにくる 波打際の岩」で独り海をみつめ
るひと時に、初老の詩人は一体何を想うのか、若い僕には想像し得
ぬ心境があるのでしょう。波が届くことの無い岩の上に佇む姿に、
長年生きて来た作者の落ち着いた心の境地を感じます。遥かな昔か
ら同じ場所にある岩の上で、詩人が本を開くと吹いて来る潮風に、
(はたはたと頁がめくれ またたく間に千年が過ぎてゆく日もある) 
という言葉から、作者はこの詩の中の海に永遠を垣間見ながらも、
大自然の前では人の一生も瞬く間の夢にすぎないと感じて目の前に
広がる海を見つめている詩人の姿が目に浮かんで来るようです。 
 次の日も「波打際の岩」に腰をおろす作者は「さかしらに書物を
ひらくが 何ひとつ読みとることができない」と、長年生きても尚
深まる人生の謎を悟り得ぬまま「やがてわたしは この世から去っ
てゆく」ことを、読者にそっと打ち明けている気がします。 
 この詩を読み終えて、最後に印象に残るイメージはこの詩の題そ
のものである「はたはたと頁がめくれ・・・」という詩情ポエジーであり、
その中にこの世の(時間とき)を超えた(永遠)が垣間見えるのは、作
者が人生を生きて来て、無数の詩を書き続け、辿り着いた(無常の
境地)がこの詩に現れているからでしょう。 

 この詩を書かれてから幾年の月日が流れた今も、新川和江様は、
「波の届かない岩の上」に腰をおろす日があるのでしょうか。そし
て、潮騒の響く海に瞳を細める詩人の胸に、どのような過日の想い
出が甦るのでしょうか・・・この手紙を書いている筆を置く前に、
瞳を閉じると、潮風の中ではたはたと頁のめくれる、その音が、遥
か遠くの海から聞こえて来る気がします。 



          * 文中の詩は「生きる理由」新川和江・著
           (花神社)より引用しました。 





散文(批評随筆小説等) 新川和江氏への手紙 〜名詩を読む②〜  Copyright 服部 剛 2007-05-14 22:43:28
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