苺を求むる
カンチェルスキス


 
  


 わたし、苺をいただこうと思って、近所の自動販売機まで出かけましたの、そしたらば、それは偶然、ペプシの自動販売機でございましたが、なんとも、苺は売ってませんのよ、懐疑という二文字がわたしの足の裏で点滅したのでございますが、当然のことながら、周囲のみなさんには見えてないに違いなく安心していましたところ、たくわんの根っこのほうの先っちょを口から少し出してる通りすがりのお婆さん(もしかするとお爺さんだったのかわかりません)についてる杖でもって、指差されましたの、
「わしは目が悪くて文字がよく見えんのじゃが、あんたの足の裏でなにか点滅しておるよ」
 わたし、ハッとして、思わず、背中に五寸釘を打たれたような心境になって、言葉がぜんぜん出ませんでしたの、もう次に何か言われるまで黙っておこうとか、何も言わずにこのまま通り過ぎたいと思ってたところ、お婆さん?はたくわんの先っちょをにょろっと調和よく出したまま、おしゃべりになったのでございました。
「んー、わしは小学校しか出ていないですけん、その文字、習っとらんから読めませんですけん、ごめんなさいよ。じゃが、なんか点滅しとる」
 あ、とわたしは、お尻の穴がきゅっとしぼむ思いがした、なせばなるなる学校教育って歌詞がわたしを最近とらえて離さないあのリフに乗って、大空を駆け巡ったのでございました。
「あのー、お婆さんや。世間的には豆腐には絹ごしと木綿の二種類があると広く言われてございますが、間違った物の見方などと奇天烈な言い方はしませんけれど、それは間違った物の見方というものでございます。豆腐には、絹ごしと木綿の他に、アウトローという分野があるのでございますよ。通称、悪人豆腐と言われ、壁にぶつけるのが通常の使用方法でございます」
 わたしの足の裏の点滅する懐疑という二文字はますます点滅のレベルを倍増させ、文字のサイズも大きくなり、フォントもすでに明朝から毛筆体に変わりましたでございまして、お爺さん?にそれを見透かされやしないか、たこ焼きを裏返すときのように心落ち着かなかった。
「けっこう。けっこう。これからは夏にはサンオイルを塗りますけん。毎夏、日に焼け過ぎて、2ちゃんねるであいつは歩く備長炭だ、みたいな書き込みがありましたけん、わしも、はらわた煮えくり返っておったけん、塗りますけん、サンオイル、ほいじゃ、これから家に帰って、夏を待ちわびますけん、さいなら」
 わたしの小さな胸の中では、目の前のご老人はすっかりお爺さんと認識されていましたが、お婆さんのようでもありました。杖でもって手を振るご老人の後ろ姿を見ながら、蟹を食べるのがお上手なのね、きっと、と青竹踏みを毎日欠かしていないせいか身体の調子が良いときのような明るい気持ちにわたしはなりました。けれど、懐疑という二文字はわたしの足の裏に住み着いてございまして、ロングバケーションIN桂浜のライフスタイルをご提案差し上げていましたのでございます。なぜだろう、とわたしは思ったので、実際に口に出したのでございました。
「なぜゆえ、ペプシの自動販売機には苺が売ってないのかしら?アイキャントアンダースタンド」
 夜空にちりばめられた満天の星たち、サバンナ、獲物を追う狩人、ビキニパンツの水泳選手たち、わたしはいろいろ思い浮かべた、それはきっと思案するということになりうるのでございましたが、この件に関しましては、きっとインターネットには記載されていない、という自覚をはっきりと持ったのでございます。もしかすると、とわたしの二の腕はさっと黒光りいたしました。幼少の頃、タコウィンナーを食べて以来、何かひらめくとわたしの二の腕は黒光りするのでございました。
「きっと、ぺパシの自動販売機なら、売ってでございましょう」
 苺が好き、とわたし。わたしは苺が好き。除夜の鐘の音を聞きながら、苺を食べる自分をわたしは想像したのでございました。うっとりと、レバニラ炒めのような陶酔感に包まれ、一瞬ですが恍惚として気絶したのでございますが、背筋を強める感じの練習を繰り返していたのでございますので、わたしは持ち前の身体バランスを駆使して倒れなかった。
 強い子、わたしは強い子、アンダルシア生まれの強い子。
「ぺパシ。あらっ、聞いたことないわね。なに、かまうもんか」
 と言ったあとで、わたしはくすくす笑わざるを得ないのでございました。あらっ、まるでバンカラ男子学生のような口調だわ、と自分でおかしくなったので、電信柱に貼ってるポスター、破顔のキャメロン・ディアスと共に、笑ったのでございました。彼女、ほんと、よく笑うわ、いつまで笑ってるのかしら、とわたしはキャメロンはきっと異国の人、との思いを再認識しながら、笑いが止まらないのでございました。
「はは。おかしいわ。太平洋を行きかう貨物船の船上で放屁するときの気分って、きっとこんな感じね」
 笑う門には福来るって昔の人はよく言いましたのでございました。福というのは何でも、ウエルカムな物でございます。けれども余計なことを承知で言うならば、福留功男はノンウエルカムなのでございます。門に入ってこようとする福留功男はハエ叩きでパチンとするのが正しいノンウエルカム反応でございます。そして、福すなわち焼きそばラッキーが玄関を叩いてやって来たならば、わたしたちがしなければならないのは、青空に向かって物干し竿をくるりんと振りかざすのをやめ、大きな声でカンツォーネを歌うのもやめ、今一度深呼吸するのもやめ、すべての道はローマに通ず、という格言を唱えるのもやめ、ドアを開け、「おかえりなさい」とひと言、福すなわち焼きそばラッキーをおうちに招き入れて、お茶を出して差し上げることだけでございますのです。
 そうです、そうでございます、キャメロンと共に笑うわたしにも福が来たのでございます。余計な支出を抑え、家計にもやさしい、焼きそばラッキー。すなわち、わたしは感じ入ったのでございます。こんなふうに。
「苺を求むるわたしは、すでに苺だ」
 というのも、わたしは苺を求むる、苺を求むるわたしは、あぎゃっ、わたしは苺だ。
 そんなふうに思ったものですから、わたしは急遽、近畿日本ツーリストにぺパシの自動販売機を探す旅の予約をキャンセルし、緊急のときのための登山靴の購入も見合わせたのでございます。もろもろの出費、苺のお代がかからないと思い至ったときの安心感。わたしはもううなぎのぼりでございました。
 すっかり忘れていたのでございますが、足の裏の懐疑という二文字は点滅もやめ、周囲のみなさんに見られても恥ずかしくないような文字に変わっておりました。苺を求むるためにお出かけ差し上げたのでございましたが、わたしはおうちに戻る頃には、すでに苺になっていたのでございました。この話に似たような格言で昔、確かこんな言い回しがございました。
「第3のビールが新しくなった」
 記憶は定かではございません。近頃、黄砂の影響でぼぉーとしておりますので。
 帰ったら、さっそく、わたし、苺をいただこうと思っております。






散文(批評随筆小説等) 苺を求むる Copyright カンチェルスキス 2007-05-12 18:49:53
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