チェス:初期設定の話
渕崎。
それはもう、最初から決められているものなのだと思う。
[ チェス ]
チェスの盤に向かいながら「道玄坂いろは」はそう呟いた。
保健室のカーテンで区切られた一角、消毒液の臭いの染み付いたベッドの上で道玄坂の持ち込んだ折りたたみ式のチェス盤を挟んで正座で向かい合いながら、つらつらと取り留めのないことを喋る。
正座でチェスをする姿は傍から見たら多少シュールだろう、と「保健室の君」こと渡辺春彦は思う。
実際につい先日、このチェス対決をたまたま目撃した後輩であり保健室常連の一人、木原こずえはこの光景を見た瞬間絶句したあとなんともいえない表情で「何をしてるの?」と怪訝そうに尋ねてきたのだから、さぞかし奇妙な光景なのだろう。
けれど、目の前の女は気にした様子もなくチェスの駒をどう進めるか思案し首を傾げている。
道玄坂いろは。
義姉の友人の一人にして、この保健室の住人。要するに先輩だ。
「で、何が最初から決められてるんですか?」
「え? あ、あぁ。聞いていたのか」
「聞いてましたよ。こんな至近距離での独り言なんて、嫌でも耳に入ります」
「そうか、それはすまない」
あまりすまないと思った風もなくチェスの駒をすすめ、一応先輩は形式上だけ謝る。彼女はこういう人だ。とらえどころがない、というよりは得体が知れない。
いつもうっすら笑んでいるのに、どこか目が笑っていない。
悪い人ではないと思うのだが、善い人かと問われれば頷くのに自分は多少逡巡するだろう。
つまり、そういう人だ。
「初期設定、といものは誰にも与えられていると思うのだよ」
「初期設定?」
「そう。ゲームや小説にあるだろう、根本の変えようもない努力しても変えることのできない最初から自分のおかれた環境というものが」
「あぁ、ありますね」
「君の家庭環境なんて、特殊極まりないがそれを厭い全力で足掻いたところでそれは変えようもない事実だろう? まぁ、君はその家庭環境を厭うているようには見えないが」
「別に気にしてませんね。最初からそうだったので、それ以外の所謂『普通』なんてものを知りませんので」
「そうだろう? わたしはね、思うのだけれど人は『普通』という価値観をまず自分の置かれた環境を軸に考えるものだと思っているんだ」
「はぁ、まー、そうでしょうね」
「裕福な人間に貧乏な人間の気持ちはわからないし、恵まれた人間は恵まれない人間の気持ちがわからない、とよく言うじゃないか」
「よくは言いませんけど」
「じゃぁ、逆に問いたいのだけど貧乏な人間は裕福な人間の気持ちがわかるのかい? 恵まれない人間は恵まれた人間の気持ちがわかるのか?」
「さぁ、どうでしょうね。とりあえず、俺が先輩の気持ちがわからないのだけは事実ですけど」
「わたしも君の気持ちはわからないよ」
彼女はそう言って深く意地の悪いチシャ猫のように笑む。
あまり肉付きのよろしくない身体は彼女に言わせれば「いくら食べても体質で肉がつきにくい」らしく、「ふくよかな子が羨ましい」と常々漏らしている。
浴室で骨ばった自分の身体を見るたびに落胆するそうだ。
同じ話を木原が聞いたときには「太らないなんて!」と違う意味で落胆してたが(彼女はたぶん肉付きがよろしいのだろう)
「初期設定、というもので一番顕著なのは家庭環境だと常々わたしは思うのだよ。倫理観、経済観、常識、そんなものの集大成だ」
「そうでしょうね。うちなんかはちょっと特殊なもんで、兄弟姉妹は気にしてないのに周囲は変な目でみますしね」
「だろうな。わたしも最初に美春から聞いたときは少しばかり驚いたよ。驚いたが、まぁ、驚いただけだ。百家族あれば、百通りの家族構成があるのだから本人達が満足していれば何の問題もない」
「先輩のご家庭は?」
「うち? うちは至って普通の核家族だ。父母に弟、それからわたしの4人家族に飼猫と通い猫がそれぞれ一匹。近々もう一匹猫を招こうかと少しばかり悩んでいるところだ」
「……至って平和そうなご家庭ですね」
「平和といえば平和だろうな。表面上は」
「表面上は」
「まぁ、こういう一軒普通そうな家庭でも大なり小なり常々問題はあってな。それを表に出すか出さないかだけの違いだ。違うな、表に出るか出ないか、か?」
「それはわかりませんが」
「昔な、今はもう付き合いの切れた当時の友人が言ったのだよ『あんたは恵まれてるくせに』って。滑稽だと思ったね」
「それはまた、馬鹿げた台詞ですね」
「だろう。彼女とは仲がよかったつもりだったが、わたしはわたしの家庭について喋ったのは表面上のみの話で深いところなど一言だって漏らしていないのに、彼女はわたしをそう表したよ」
わたしのどこがそんなに彼女の気に障ったのだろうな、と彼女はケタケタと笑って黒のポーンを掌中で弄ぶ。少しばかり寂しそうに。
きっと、彼女は今こうやって笑っているけども当時はかなりその言葉に衝撃を受けたのだろう。今の今まで鮮明に覚えているということは。
「わたしが悪いのか、と悩んだよ」
「……」
「何か彼女の気に障るようなことを無意識にしてしまっていたのかとね。ただの彼女の家庭内におけるトラブルから来る八つ当たりだったのかもしれないのだけど」
「そういう人間もいますよ」
「だろうな。彼女は常々自分の家庭の不満をわたしに漏らしていたから、きっと平和ボケした家庭で育ったわたしになら八つ当たってもいいと思ったのだろう。こちらとしてはいい迷惑だけど」
彼女が患っているのは木原と同系統の病と、それの症状とともに浮上した生まれつきの病がいくつか。白い肌は白いというより青く、生気に乏しい。
教室が嫌いだという彼女はほとんどといっていいほどこの保健室に篭っている。成績で上位を取るのを条件に特別に許可してもらっているのだ、私立様様だね、と彼女は笑っていたが。
「わたしの金銭感覚も家庭の話も、彼女にとっては気に入らなかったのだろうな。坊主にくけりゃ袈裟まで憎い、とはちと違うか」
「それはわかりかねますが」
「とにかく、彼女には嫌われたよ。価値観が違ったんだろうな、双方が常に互いにコンプレクスを抱くだけだった。わたしは彼女の生来の才能に惚れていたのと同時に酷くコンプレクスを抱いていたのだけど」
「泥沼ですね」
「あぁ、愛憎劇もいいところだ。類は友を呼ぶ、というのはあながち間違っていないのだろうな。同じような価値観、同じような家庭環境、同じような経済観念。少しでも齟齬が生じたら、崩れないだけのバランスをまだ保てなかったの、ただの相性かはわからないけれど」
「で、先輩は結局彼女のことが好きだったんですか嫌いだったんですか?」
「好きだったよ。今となっては嫌われてしまってこれ以上嫌われるのが嫌だから連絡すら取れないけれどね」
寂しいものだ、と彼女は笑って彼女との会話のうちに気もそぞろになっていた俺から黒のキングを取り上げた。
チェックメイト、と彼女が小さく呟く。
「簡単なようでいて難しいですね」
「そうさ。簡単なようで難しい問題なのだよ」
初期設定、ね。
あぁ、だからあの従兄妹は空恐ろしいほどに互いのことを知り尽くし互いのことを理解しあってるのか、と俺は彼女の深遠を垣間見ると同時にあの友人とその従妹の繋がりの強さを同時に理解した。