バカの壁と知識人はどうでもよくて…
カスラ

ようするに彼は(アフロさんは)不信に思うところの「知識人」というよくわからない言葉を、その自身の辞書にもっていることが既に解せないのだ。彼の言いたいことを、まさにそのように感じる。この「感じる」についてまず考えてみる。

おそらく「知識人」という人が棲息しているのは、受験戦争の延長に開けた小さな世界。彼らは実は何も分かっちゃいない。そんなやつらの誰が誰に何を教え説くというのであろうか。実際私は、「どういうわけか生まれてきて、お天道様も変わらずに昇るけれど、死んだらどうなるかは、やっぱりわからないねぇ」と、ゆったり、しみじみと呟く市井の老人以上に、彼らがものごとの気配に敏感だとは思えない。何故なら、そのとき彼は「死」と「無限」とを、その意識内に生きられた「現実」として直観しているが、「知識人」たちは、「死」と「無限」とを、数々の知識の取捨選択によって理解し得ると疑うことなく「信じて」いるからである。

※いったい、私たちが日々何かを感じ、何かを考えているということは、それと名指されなければならないほどの特殊な出来事なのだろうか。「本当にそんな気がする」という、ただそれだけの日常の経験を「感性の諸形式」と言い換え組み換えしてから、その対応物をどこか別の場所へ探しにゆこうとする。現象以前にそんな命名があるはずがないことにも、また、命名がある限り、【その現象(意味)は既に知られているはずである】ことにも気づかずに…。(※池田晶子:中央公論1988)

「頭で、字面としては、わかるが、感じでわからない」

というあの言い方は実はまったく正確である。「感じ」でわからないものは、何もわかったことにはならない、ということが分かったとき、それが「わかる」という言葉が指示する全てであり、人類はこの出来事について、それ以外の言葉を持っていないだけのことだ。
わかりやすく上手に説明できないけど、プルーストの『失われた時を…』の、一口のマドレーヌの味覚が甦るあの「感受」と言えばわかるかな?そのことを、※「思想は思考に先立たず、思考は感覚に先立たない。そして感覚は、私たちの一切の経験の基底に存在しているものだ。」(※先出著者中央公論1988)

この単純な事実に気づかない(知識人)がいかに空疎な言葉を費やして私たちに何を教え説き明かすというのだろう。


……と、彼は言いたかったに違いない。まさにその通り、それ誰しも思う常識である。わからないものはわかられるしかない。


※この【感受】の問題こそ、論理として(例のクオリアの話しなんかそうだし)科学・哲学すべての分野での最先端のテーマであり、今まさに論理として考察されている。【論理】を浅層部分での思い込みで屁理屈的な、あるいは机上の空論と思っている人がいる。

余談ではあるが、「わかる」のは、私(カスラ某)ではない。また、考えているのは「われわれ」ではない。論理の仮借なさに促されそれがそうなり、それ以外とはならない。「わかる」ということが「わかる」のもまた「われわれ」ではない。論理が論理自身の必然性に叶う時、「わかる」という「感覚」で、自身に証し立てる「論理思考を自動的に自己発動してしまう機械(システム)」は頭の内のみならず、あらゆる事物に内在している。以上のようなヘーゲルの大・小論理学を読んでそうわかったとき、頭は壊れそうで、興奮して三日は眠れなくなった。


私たちは常識として、あるいはどういう訳か、自分が何もわかっていないことを分かった。そして、自分は何かを分かっていると勘違いしているという「知識人」を、また自分は何も知らないということを知らない人が誤読するのを先取りして→「バカの壁」と「真っ赤な嘘」と老獪な解剖学者はタイトルをつけていた。
いちばん低いハードルにひっかかっている。本当は埋め込んだ、「常識」のところの、「私は生きて、死ぬ」というまるでわけわからない、ここに深く引っ掛かって欲しい。「私」というアルものと「ワタシ」というナイもの、が同時に在る、ここに引っ掛かって欲しい。



…§…


散文(批評随筆小説等) バカの壁と知識人はどうでもよくて… Copyright カスラ 2007-05-11 15:54:39
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