投資
小川 葉

「百万円といったら、大金じゃないですか。」
 驚く私に、老女は、落ち着いた様子で笑いながら言う。
「ふつうだったら、そう思うかもしれません。でもこれで人生、やっと清算できた思いなのです。」
 電力会社が、この老女のあばら家に、十数年に渡って、電気料金を二重請求してきたのだと言う。間違った配線工事によるものだったというその十数年分の差額は百万円に達しており、それがまとめて先日、老女に支払われた。
「私は生まれたときから百万円の借金を背負って生まれてまいりました。当時、父が事業家で、世の中の好景気をいいことに、亡くなった祖父の警告を聞かず、大きな投資をしてしまったのです。その見返りは、しばらくの間ありましたが、私が高校を出てから都会の街で暮らすようになり、そうして私自身も自分に投資しながら、つまり借金をしながら、都会での生活を成り立たせようと努力し、自立しようとしていたその頃、思いもよらず、予想以上に景気は悪くなり、父は五十万円の借金、それに私も五十万円の借金を背負うはめとなりました。それからすぐに父は亡くなり、母も追うように亡くなり、私は心の優しそうなひとと結婚しておりましたから、心配しないで、お父さん、お母さん、と、毎日祈りましたが、しかしその優しそうだった夫は、仕事もせず、遊んでばかりいる人であることが、少しずつ発覚されて、その頃、実家を処分したお金を借金の返済にあて、のこり五十万円というところまで来ていたのですが、夫の数々の多角的な事業のために、また五十万円増やしてしまい、やっぱりまた借金百万円となりました。百万という金額、数字、価値、人生、私はこの百万という数字のために生きてまいりましたし、また、そのために生かされてきたと言っても過言ではないのです。だから、百万円といったら、大金じゃないですか、と言うあなたに、いま私は、途方もないほどの同情と、共感をしてしまいました。ほんとうに大金なんですよ、これは。私が生まれてからこの歳になるまで、百万円もの大金に翻弄されてきた、たったの百万円、そのためだけに生きてきた、あとは少しだけの楽しみと苦しみ、それだけがあって、残りの人生は・・・」
 そこで、老女は途切れ途切れになって、その沈黙に、私は失礼であることは百も知りながら、おかしくて、おかしくて、ついに笑い出してしまい、そうして私たち、二人して笑った。幸せなひとときだった。しかしそれから一ヶ月して、老女は亡くなった。
 彼女が一生かけて返済した金額は、結果的には九十万円だった。そして残りの十万円は、息子夫婦に渡されたのだと言う。息子夫婦はその頃、借金の返済に、あと十万円足りなくて困っていた。息子はひとり自殺しようと、ひそかに考えていた。母からもらった十万円が、彼の命を一ヶ月、先延ばしにしたのである。
 久しぶりに、彼と街で会った。前に会ったときよりも、顔色がいい気がした。少し高級な酒をオーダーした彼は、開口一番、借金が十万円もあるのにね、と、苦笑してみせた。


散文(批評随筆小説等) 投資 Copyright 小川 葉 2007-05-11 01:29:53
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