信ずるな、考えよ!
カスラ

先に亡くなった文筆家の池田晶子はおおむね次のようなことを書いていた。


※例えばカルト宗教に入る人たち。たぶん、たんに彼らの何かが「弱い」ということではなく、やはり「理性の働きが弱い」というほうが正しいと思う。「知性」でなくて、「理性」である。何も差別的発言をしたいわけではない。知性ということならオウムに入信した若者など、高学歴の理工系が多かったはずだ。理性の働きというのは学歴や専門知識とは無関係である。何故ならそれは、世間一般が所有しているはずの、事象一般、すなわち「常識」についての洞察力だからである。また「常識」というのは世間的な規範でも社会的なルールを語るものでもない。

「大衆」とは盲目た人々への謂として、何やら識者や賢らしげな人々からは、さも畜群のごとく、いかにも自らはその集合には属さない確信を前提としていわれたりする。先出のオウムに入信した理工系秀才たちに限らず、受験秀才達が自ら何をや考えずに生きてきたためとはいえ、何故理性の働きが弱いのかという理由は、本当のところよくわからない。「個体差による」というのがその意味では最も正確とは思うが、きちんとものを考えるその仕方を学ぶ機会に恵まれなかった、その習慣をもたなかったということではなかろうか。(池田晶子:新世紀オラクル)



「世の中の価値は、一様に金と現世が全てである。何もかもがわかりきった世界の話しである。」と、そういう中で、「生死」という絶対不可解・不可知に直面した彼らには、それらを「考える」仕方が分からないと思われる。そして常識とは「生きて死ぬこと」というたったこれだけである。

稚拙な例ではあるが、ある名門私立の小学館の御受験の設問→「時計の音は?」においての正解は「チックタック」であるという。今現在、そのような音を奏でる時計が何処にあるのかは言わずもがな、受験教育が、その素晴らしく柔らかで自由な子供たちの脳に、まるで事実とは、常識とは掛け離れた知識というより洗脳にも似た形で「チクタク」と、ドグマを植えつける。そして自由に考える力と事実を確かめ噛み締める眼としての思考そのものを奪い、纏足の呪詛をかけているのものの本当の正体は受験教育などではない。

〈ふさわしい魂にのみ、この言葉を植えつけるのだ〉(パイドロス)

確かにその歯牙にかかり、マインドコントロールされた子供たちや若者は、その硬く閉ざされた鎧の中に、眼を塞ぎ、耳を塞いでいるのだから、真理が言葉の相手を選ぶ限り、それは届かない。「相応しい魂」以外に「救い」を語ることは、それ自体が新たな信仰の強要となるやもしれない。

大衆というものは、昔も今も、認識よりも救済を求めるもので、苦しみの何であるかを知るよりも、苦しみから救われることのみを望むものだ。本当は、苦しみの何であるかを知ることが、苦しみから救われるという、そのことなのだが、宗教のやり方はそのことを理屈で説かずに、ただ信仰せよとするのは、「方便」としても甘くはなかったか。
大衆にとっての「救い」とは何か。というふうに、いかにも偉そうに聞こえる問いを立てると、顰蹙を買うかもしれないが所有している理性を使用しない、すなわち「理性の働きが弱い」というまさにそのことを指して、「大衆」と呼ぶのだから、やはり大衆には先に理屈を説くべきではなかったのか。


「信仰」の「信」だけではなく、事実私たちは、いかに自信ありげにであっても、「信じる」という言葉で何ごとかを表明する人に、いくばくかの不信感を覚えはしないだろうか。私たちが知ることを望むのも普遍的な事実の方であって、各人が抱いている個別的な信条、信念ではない。これがむしろ「狂信」というあの極端な意識ならば、「私は信じる」という表現をとらずに、「事実がそうである」と言い切って動じることなどないであろう。このように「信じてる」意識とは、意識が何らかの対象的な観念において、巧妙に、あるいは愚かしく、慣習的に、自分自身を忘却している状態であるならば、「信じる」と発語することは、忘却しきれない不安を揉み消し、その観念になりおおせてしまうための呪文を唱えるようなものだ。つまり、「信じる」という表現は、このとき「信じたい、信じよう」という意志の表明に他ならない。しかし、意識は、信じようとして意志して信じられるものではない。「信」は意志とは別の位相を動くのだ。発語されることによって逆説的に現されるそのような意識は、いつも何かを隠蔽している。「信じる」というその表現自体が、実は逆に、多数の世界観の存在を示唆しているのだ。

詩歌はこの最も自由で、人称性さえ超えた普遍の場所から発語される言葉である。その中にあって、纏足の呪詛を受け、自身へ唱えられるその500余りの呪文の言葉が痛ましい。金太郎飴のごとく毎日連ねられるそれ曰く、「助けて」と聞こえるのははたして空耳であったのだろうか。この盲目ていると想われる眼には、本当は自身が唯一としている世界の他に違う世界が在り、自身も世界を生み出しているというということを気づいていたのでなければ、ここに届け掲げられてきた無数の詩歌の言葉に、未だ力が宿らなかったということなのか…やはりソクラテスが言ったように「相応しい魂」となるまでは詩の言葉は鎧を通すことはできないのだろうか…。



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未詩・独白 信ずるな、考えよ! Copyright カスラ 2007-05-10 23:00:28
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