真実
小川 葉

 人がだめになっていく様は美しい。悲劇のヒーロー、ヒロインには涙し、身近の悲劇には鈍感な仕合せ者の、ものごとの真理を見抜けない盲目に、わたしは辟易する。現実の退廃には目を伏し、幻影の希望だけを見つめ、そうして視野の外にある、真実の悲劇の実体を知ろうともせず、生きているのが、仕合せ者の罪ではないでしょうか。

 たとえば、芝生の辺境に咲く花。名前は知らない。芝生の上を、歩きはじめの幼児が、よちよち歩いていて、お母さんが、こっちよ、こっち、と手招きすると、幼児は、お母さんのほう、つまり名もない花の方へ、あぶなっかしく歩いていき、ころび、花は踏まれる。花弁はことごとく破壊され、茎はなぎ倒され、葉からは緑の血が流れる。ころんで泣く幼児を、母がいたわる。泣いているのは、幼児だけではない。

 そんな悲劇が、この世にどれだけあることだろう。考えるほど、いよいよ私は、やりきれなくなって、しかしそんな悲しみは、悲しみとは呼ばない。公に認められない、名もない悲しみは、悲しみではない。しかし考えてもみたまえ、それこそが、真の芸術の対象であるということを。いかにも大義そうに生きているような、仕合せ者が考えている悲劇など、みな虚構である。

 排除すべき対象があればこそ、そこには偽善の大義が生じ、なぜかそれが真の希望であるかのような錯覚を人はする。排除される対象には、錯覚する希望もなく、ただあるのは芸術の才能、謂わば、真理を見抜く目である。芸術表現には、苦悩が不可欠なのである。希望を錯覚し、そうして仕合せを予感したとき、彼はもはや芸術家ではない。

 だめだね。こんなつまらないことを書くぼくは、今、仕合せなのかもしれない。まだまだ、嘘っぽいもの。


未詩・独白 真実 Copyright 小川 葉 2007-05-07 21:18:14
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