鳥かご
土田
ののちゃんは、お酒をつくるのがすんごく下手で、とっても不器用なんだ。たとえば、飛べない鳥とかを朝五時半の公園で見つけた時、ののちゃんは何を思ったのかすぐさまののちゃんの店の近くのペットショップに鳥かごを買いに行って、その鳥をかごの中へ放って、家賃三万五千円の和室六畳風呂無しのぼくらのアパートに連れてきちゃったりするんだ。
連れてきちゃったのはまだ良いとしても、それっきりののちゃんは朝六時半の歯磨きも、そのあとのぺったんこの布団のなかでする今日一日の出来事の話も、そのあとでこっそりされるキスも、そのその後の今月は何とか十割をキープしているエッチも、ぼくが学校の昼休みに百円マックをほお張っている頃ぐらいに起きて見る、タモさんやみのさんもぜんぶ放って、鳥かごの前で頬杖ついて鳥とにらめっこしながら「ほら、言ってごらん」って、十分後おきぐらいに鳥に問い掛けるんだ。
ぼくはそのののちゃんの言葉の意味をあまり深く考えずに、三限の三島由紀夫を熱弁する先生に感化された眠気に喝を入れて、鳥のせいで放られたいつもなら寝ぼけ眼で面倒くさそうに相手するののちゃんとの何でもない一時を、別に鳥に嫉妬したわけじゃないないけど、何となく思い浮かべてみたんだ。
ののちゃんは、いつも朝の六時すぎにべろんべろんになって、ドアを開け閉めするとき「ギィーバッタンッ」って言いながら帰ってきて、寝ているぼくの上に馬乗りになって「吐きそう、吐きそう」って遠まわしにおねだりするんだ。そして、まだ夢の途中を見ているようなぼくに抱きついてくるんだ。もう消えかかったディオールの香水を纏った、ふわふわのファーがついたコートこすりつけてくるんだ。そして、ぼくはいつも、ちょっと文句を言いながらも、猫背になったののちゃんの、なだらかで薄っぺらな背中をさすってやるんだ。そして、自分が満足したらののちゃんはお礼も言わないで、いきなり洗面所で歯磨きしだすんだ。すんごい一生懸命にごしごしするもんだから、洗面所の鏡がののちゃんの口から出た小さな泡でいっぱいになって、ぼくはそれを遠目で見つめるのが実は好きだったりするんだ。いつだったかぼくが、どうしてそんなに一生懸命に磨くの?って聞いたら「世の中にはねぇ…」って、そのあとになにか言葉を続けようとしてやめたののちゃんに、ぼくはおでこにでこぴんされたんだ。ただそれだけなんだ。歯磨きが終わるとののちゃんはシャワーも浴びずに、ぼくの布団のなかに潜り込んで、左のおっぱいの上にあるほくろの辺りをさすりながら、いつだったかののちゃんが、すんごく酔っ払って、振ったビール瓶を勢いよく開けたときに付いた、天井の染みを見ながら、今日一日の出来事をひとり言のように呟くんだ。常連の公務員のお客さんに、最初はおっぱいを触られていたのに、いつの間にかお尻を触られていただとか、わたしの水割りがまずいのは、新品過ぎる製氷機のせいだとか、隣町から猫が一匹迷い込んで来たとか、ママはいつも着物のくせに、今日もパンツはちゃんと履いていただとか、ぼくの作ったスクランブルエッグは冷めていたほうがおいしいだとか、一時間くらい延々と呟くんだ。そして、いつも最後は決まって空にまつわる話をするんだ。「空って、どこからが空なんだろうね」とか「エッチでオゾン層が増えたらいいな」とか「鳥って飛んでいるときに急に死ぬのかな」とか、ののたちゃんはこの時だけは、ぼくにも判るぐらいにとても楽しそうに話すんだ。でも残念なことにぼくはののちゃんの話を全部最後まで聞いたことはないんだ。でもののちゃんは、怒ったりしないし、駄々をこねたりもしないし、ひたすら天井に向って、やっぱりひとり言のように話し続けるんだ。そして、そのあとに必ずののちゃんは、いつの間にか寝てしまったぼくにちょっとだけ長いキスをするんだ。そのキスにぼくが気づくと、ぼくたちはいつもエッチするんだ。いつからかこうなったのかは、ぼくにも、そしてののちゃんにも多分分らないけど、いつからかこうなったんだ。そして、こっそり本音を言うと、ののちゃんにキスをされて起きたけど、寝たふりをしたことが実は五回くらいあるんだ。でも必ず、寝たふりをした次の日、ぼくが学校に行く準備をしていると、「最近疲れてるの?」ってにやにやしながら、ののちゃんが布団から顔だけ出して言うんだ。ただそれだけなんだ。ぼくらの毎日なんてただそれだけで生きている気がぼくはしていたんだ。
十七時、「ギィーバッタンッ」って言いながら帰ってくるとののちゃんはまだ鳥かごのなかの鳥に問いかけていたんだ
「言ってごらん」
「ほら、言ってごらん」
「自由はここにはないよ」
「うん、知ってる、そういうことじゃなくて」
ぴよっ、とその鳥がぼくらのまえで初めて鳴いたんだ。