茜さす夏
弓束

 コンクリートからふらふらと立ち上っていく熱気に埋もれ、空は酷く乾ききっている。ここは砂漠なのだろうか。少しだけそう考えてしまう。
 夏みかんを剥く指の先、あしらうように付けられた細長く淡い桃色の爪に、白い筋が入り込んでいく。相変わらず生ぬるい風が夕顔の紫を撫で、夕立をどこか期待していた心は萎れていった。
 隣にはすうすうと心地よさげな寝息を立て、時折うめくような寝言を発する健二さんが寝転んでいる。床で寝てしまって、腰を痛めないだろうか。そのように案じたが健二さんは「畳の上は大丈夫」なのだと快活な声をしていた。
 畳の細かい折り目の上、健二さんは寝返りを打ち、わたしの隣から少し遠ざかっていった。
 風鈴が涼しい音を立てるが、蒸し暑い気候に肌は汗を噴出すことを止めない。健二さんが寝た頃には掛かっていた薄い布団も、いつの間にか跳ね除けられて寂しそうに皺だけを残している。
 夏みかんの芳しい香りが部屋に立ち込め、壁がそれを吸い込む。
 家の前のとおりを自転車が駆けていき、それに伴ってどこか騒々しく、それでもふわふわと微笑んでしまいそうな子供たちの声が聞こえる。
 それなのにここは、静かだ以外の形容動詞を寄せ付けないと言っても過言ではないほど、沈黙に征服されている。わたしたちは健やかな体でそれを拒まず受け入れているだけだ。
「……どこか、もっと寂れた場所。それでいて自然に満ちた昔の風景を持っている場所」
 変わらぬ風景を睨み、やがて伏し目になる。自ら剥いた夏みかんを歯で噛み潰し、甘酸っぱいそれを舌で転がす。
「そんなところに隠居して、しまいましょう」
 今までもそうして引越しを幾度も繰り返し、この場所にたどり着いたのだ。町の人なんて誰も知らないような、こんな場所に。
 だけど、ここは人が優しすぎる。それには健二さんだって気付いているはずなのだ。
「わたしたちが、二人になれる場所」
 そんなところにこうして暮らしましょう。
 わたしは待ちわびている。健二さんがわたしの髪を弄んだ暁に「行くぞ」と無愛想な口調をして、人気の少ない理想へと攫ってくれるのを、待ちわびている。
 ふう。落とした息は重たく肺に溜められたものだ。
 健二さんが寝ているときにしか、わたしはこう、我が侭を口にすることができない。
「健二さん、起きて。一緒に夏みかんを食べましょう」
 体を揺すると、健二さんは咄嗟に目を開けた。薄らとした寝ぼけ眼、少しだけ濁って見える茶黒い瞳。
 わたしはそれが愛しくて、仕方ないのだ。
 ほうら。オレンジが美しいでしょう。いまだに晴れ渡る、残忍な空を見つめて一緒に齧りましょう。
 言葉に発しなくとも、健二さんは柔らかいたたみの上で股を広げて座って、夏みかんを口にする。
 無言の空気が漂う、暑苦しい温度の中で健二さんはやがてわたしの頭を撫でる。そして髪の先端をくるくると指に巻きつけて弄ぶのだ。
 わたしはその間、ずっと期待しているだけだ。心の中で愛しすぎる苦しみに悶え、言葉だけを待っている。
「嗚呼」
 晴れ渡る空から、一滴、雨粒が落ちた。今日は天も泣いてくださるらしい。お天気雨が強く叩いた地面が、色を濃くしていく。そのうち雨によってこの土地に溜まった熱が抜き取られていく。
 そしてようやく、夕方の影がわたしたちをさしていくのだろう。

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 (椎名林檎さんの迷彩に感銘を受けて)


散文(批評随筆小説等) 茜さす夏 Copyright 弓束 2007-04-30 04:17:40
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