幻想と真理の彼岸で
板谷みきょう
1993年6月のある日、僕の中で鳴りを潜めていたアッケラ感が動き始めた。
僕はその頃、愛と喜びの実践に満ちた『教祖』となりつつあった。僕の内の忌まわしきアッケラ感からの誘惑だ。それは、若き哲学者の太刀郎が、
「僕らの話してる事って、内容はともかく歴史的な流れでいうと、ここ、ここ。『ポスト構造主義の挑戦』、この辺にそっくり。読んでみてヨ。」
太刀郎は別冊宝島44『現代思想・入門』を持っていた。
次の日、僕は
「スゴイ。正に僕達は若き哲学者だったんだねェ。しばらくこの本、貸してくれる?」
始まりはそこにあった。
僕の心の奥深く、檻の中に閉じこめていたはずのアッケラ感は、長い年月の間にいつしかあれだけ太っていた体も痩せ細り難無く檻の格子をするり抜け、目の前のごちそうを喰らい始めたのだ。『現代思想・入門』というごちそうを、僕の眼と左脳の一部をこっそりと使って。
「全ては『胡蝶の夢』でしかないのサ…ないのサ…ないのサ…∞。」
彼、アッケラ感は虚無の嵐のドラマーみたいな。
そう、つまり完全なニヒリストみたいだ。覚醒の内に体験している現実世界を、存在すら踏みにじっていく。人間の温もりを奪い、豊かな交流や関係を、意味の無いものにして拒絶し続ける。個人の思いは個人だけのものでしかなく、共有する事はできない。
まして、その個人の思いそのものすら、本当に現実なのかどうか怪しいもので自己証明できないものなのサ。アッケラ感からかんからとドラムを叩き続ける。
「俺達、何て言うか。ホラ、草や木なんかが、太陽の光に向かって育つように、本能的に快楽に向かって行くんだろうな。」
「人間なんてみんなそうサ。極端に言えば、その時さえ良ければ、他人ばかりか自分自身が苦しむ事になるのが解っていてもそっちを選んでしまうんだよ。まっ、つまり刹那刹那に“快”をチョイスしちゃうんだよ。」
「あのなんてったっけ、とても肥えた人間が空腹で食べ物はあるんだけど、間に鉄の柵があって手が届かない。それで飢餓に苦しむんだけど、結局は痩せ細った時に鉄の柵を通り抜けられて、求めていた食べ物にありつけるっていうのあったじゃない?」
「猿だよ。ハイデッガーだろ。」
「通り抜けられなくて死ぬのもいるだろうし、通り抜けられても今度は又、反対側に食べ物があって飢餓の苦しみの連続が生きるって事なんじゃないかな。」
「うーん。じゃ、お前の言う“食べ物”と“鉄の柵”は何を象徴してるんだい?」
「どっかの坊さん二人がたなびく旗を見てて動いてるのは旗だ否、風だって言い争っていたんだ。それを聞いていた師が動いているのはお前達の心だって。」
「南宗禅の慧能だろ。」
否定し得る夢や幻覚そして幻想の存在でしかないと耳打ちし始めている。完全を希求して止まないのは、人間が不全な存在であるが故に安定を求めるからであろう。
その方法は様々ではあるが、おおよそ思想哲学と宗教と科学に分類される。
個が選択する上では快と不快が指向性を決定する。
知覚(視・聴・嗅・味・皮膚)と感情(喜・怒・哀・楽)と感覚(痛・苦・痒・好・嫌)、そして欲求(生理的欲求・安全の欲求・親和の欲求・自我の欲求・自己実現の欲求)が真理の存在を明確にしてくれる。
「絶対というものが無いという絶対」や、「不動の(揺るぎ無い)真理はないという不動の真理」とか「自明の(明らかな)論理は無いという自明の論理」とかが。
僕の中で今でも虚無の嵐のドラムみたいに、アッケラカンカラカンカラと鳴り響き続けている。