ボク女が大量発生したのは80年代前半だそうだ。
(1990年に海燕新人文学賞を受賞した松村栄子『僕はかぐや姫』は、「ボク女」が大量に生息している80年代前半の地方高偏差値女子高の文芸部が舞台です。words by demi
http://media.excite.co.jp/book/daily/thursday/032/)
とな。
森田童子の『ぼくたちの失敗』が発表されたのは1976年(昭和51年)で、TBS系のテレビドラマ「高校教師」の主題歌としてリバイバルヒットし、話題になったのが1993年(平成5年)のことらしい。
そして僕が「どうやら若い女性が恋人もしくはそれに類するような異性を「君」と呼ぶようになったらしい。」と感じ始めたのは、宇多田ヒカルのデビュー以降のように思う。
まあ、世間ではもっと早くからそうだったのかも知れない。
僕は友好的な女性からは「〇〇クン」ないしは「〇〇さん」と呼ばれるのが当然と思い、晴れて男女の仲となったあかつきには「あなた」と呼ばれたかったし、実際そうしてもらってきた。こちらは始めのうちは「〇〇さん」と呼んでおき、しかる後は「おまえ」もしくは「なあ」と変化させた。
まあ、60年生まれの僕と同世代の人って概ねこんな感じじゃないかな。(僕は男尊女卑の根強い地方の出身者だから、大都市の方々はもう少し事情が違っていただろう。)
だから「高校教師」の主題歌として森田童子の『ぼくたちの失敗』という曲が耳に届きだした時、なんとも嫌な気がした。今にも消え入りそうな弱々しい女性の声で発せられる「ぼく」という一人称のやりきれないほどの脆弱さが疎ましくてならなかった。「死ねやさっさと。」みたいに感じていたな。
また宇多田ヒカルがその歌の中で男のことを「君」「君」と歌いだしたときは、「なめんなクソおんな。」みたいに感じたもんです。
なんにしても、80年以降、日本語の一人称、二人称に価値の変容がもたらされたのは間違いないようで、これは日本経済の変容と当然リンクするものだと思う。中断
はい。うんこしてきました。続けましょう。
ちょっと論旨がずれるようですが、オモロイ意見を見つけてきましたので、とりあえず張りつけましょう。
―――引用開始―――
【うずまきさん】のメール
第360号で、若い女の子の「きみ」がひっかかる、っておたよりが紹介されてましたね。その際に宇多田ヒカルの歌にも「きみ」が多用されている、というコメントもありました。そこで思ったことを……
私は女子の多い高校で国語を教えているんですが、日常の話し言葉で、彼女たちが「きみ」と人を呼ぶ場面にはまずお目にかかりません。でも、「きみ」比率がとっても高くなる時がひとつだけあります。それは、授業で短歌や俳句や詩をつくったときです。
短詩形の創作は、上達も見えやすいこともあり、私は好んで授業で扱います。そして思春期の女の子達のことですから、題材の大半は恋愛モノです。そうして彼女たちが、短詩の中で、恋の相手を呼ぶ呼び方は99%「きみ(君)」です。これは、宇多田ヒカルの影響ではないと思います。なぜなら宇多田さんが出てくる前の生徒達もそうだったからです。そして、そのわけは、私も少し短歌を作っているので納得できます。他の呼び方がないからです。相手の名前を直接呼ぶわけにいかないときの二人称で、若い女の子が使えるものは限られているのです。まさか「あなた」ではないでしょうし「おまえ」も使いにくい。(使われている場合もありますが、ごく少数です)
そしてこれは、女子高生に限った話ではないでしょう。手元にある「現代短歌最前線」(北瞑社)という本を見てみました。ここには20代から30代の若い歌人21人の短歌が収められているのですが、女性10名のうち、半分ちかくの4名が「きみ」を多用しています。一番使っている歌人は 200首中、ざっと数えて23首で「君」を使用しています。(後略)
http://www.geocities.jp/katsumieko1/kimi.html より
―――引用終了―――
これはとても興味深い観点だと思います。
いずれにせよ、現実に今を生きる若者達、特に女性達が造り出す詩をその本質において理解するためには、「死ねやさっさと。」「なめんなクソおんな。」とか言ってても埒があきません。まずはこうした日本語における人称代名詞の質的・形態的変容についての理解を整理する必要がありそうです。また中断。(うんこではない。)
(僕は今、ひとりの若き女性詩人の全体像を把握しようと努めてるんだけど、彼女と僕はちょうど親子の年齢差なんだよね。つまり「親」が「子」を理解するための方法論を探そうとしてるわけね。かな?) 中断。