散文リハビリテーション
楢山孝介
時には散文を書こう。詩ばかり書いて、詩ばかり読んで、詩のことばかり考えているうちに、段々と散文の書き方を忘れてしまった。
すぐに改行したくなる。
すぐに一行開けたくなる。
すぐに展開ぶっ飛ばしたくなる。
話は変わるけど、いや、あんまり変わらないけど、話は変わるけど、って言いたかっただけだけど、まあそれはともかくどうでもいいけど何かしらこう展開ぶっ飛ばしておかないとそんなこと書いた手前ね、格好つかないというか、なんていうかねほら、なんて冗長なことばかり書き連ねるのが散文というわけじゃないはずなんだけどほら、リハビリのつもりだからそこのところは、ね、ほら。
本題に移ると、昔僕が俳句に凝っていて、一日十句詠むことを自分に義務付けていたりした頃は、花鳥諷詠客観写生にはすぐに飽き足らなくなって、だけど季語はむしろ大事にするようになって、でもほとんど空想で詠むと何だかどんどん句が痩せていって、つまらなくなって、どうしようもなくなって、「そうだ、俳句で無理やり詩的なことを詠もうとしないで、詩を書いたらいいじゃん」と気付いて、それからはもう詩作一辺倒の生活を送ることに決め、以来二十年詩を書き続けています。
というような自伝は嘘っぱちで、句作からすぐ詩作に繋がったわけじゃなくて。俳句に凝ってる頃は詩的なことを書きたくて、詩作を始めた頃は反対に俳句的に花鳥諷詠客観写生を重視したものばかり書くようになって、一時期困ってた、というのは本当。無い物ねだりというか、他山の石というか、隣の柿はよく客食う滝だ、とかそういう感じ。
で、で、で。何故今殊更無理やりおかしな具合にテンション上げてまで散文を書こうとしているかというと、あれ、散文散文っていうけどこの文章は結局何? エッセイ? 批評? 小説……じゃないよね、これ、きっと、多分。リハビリとしか言いようがないものか、これだけじゃ迷惑になってしまうから、詩作と繋げて考えるようにしないと、そうそう、考えることが書きながらどんどん浮かんでいくのが散文のいいところだよね、書きながら柿食う客がいたらふてぶてしいよね、他山のターザンとか、そういう感じ。
で、つまり、その、そう、俳句に凝っていた時分に詩を書きたくなったように、詩を書き始めの頃に俳句に帰りたがったように、今はやたらと散文を書きたい、帰りたい、という想いが湧いてきて困ってるっていう話。
毎日詩作の習慣がついて、そろそろ一周年だから、現代詩フォーラムに参加しようってことを思い付いて、参加したらなんだか毎日発表しなきゃいけないような気分になっちゃって、他人の詩も大量に読んで、ネットに繋いでいない時も、詩を書いていない時も、詩を読んでいない時も、何書いてる時も、詩のことで頭がいっぱいになって「こんにちは、もう春ですね。ところで僕は『荒地』派の詩人では中桐雅夫が好きです」なんてことを通りすがりの初対面の人に言い出しかねないような状態に陥ってしまった。もちろん嘘だけど。
「確かに僕は詩が好きです。いっぱい読みます毎日書きます。けど、自分は自分を詩人だなんて思ってないし、詩を書く人という認識を持たれては何だか申し訳ない気分になるというか、やっぱどちらかというと自分は散文の人だと、そう思うわけです。何故かというと、ほら、今詩のことで頭がいっぱいなわけですけど、そのいっぱいいっぱいの頭の隅の隅に住み着いている墨で付いた一点の汚れみたいな小さな小さな部分が『書きたいです、散文書きたいです、何でもいいから書きたいです、助けてください!』て喚いているような気がするんです」みたいな想いが自分の中にあるんですよね。
でもまあ、それじゃあ詩はちょっと小休止して、一日一作の習慣すらやめて、詩集も句集も読まないようにして、その分散文を書くようにしたらどうなるかというと、きっと「自分、確かに散文書くの好きっす。これが一等大事だと思ってるっす。だけど、やっぱ人生それだけじゃないと思うんすよね、もっと改行した方がいいし、もっと行開けした方がいいと思うっす。時には俳句を詠んだりした方がいいっすよ」なんてことを思い始めるに決まってるんです。だから結局は、何書いても同じようなことを思うんだから、全部書いていきましょう、という話になるんですよね。きっと。
というわけで、どちらかに偏るということはせず、詩も散文も書いていこうと思いました。というようなことを書きながら考えました。というようなことを、書かなきゃ気付けなかったのかよ、と思いました。