短編「The First Encounter」
板谷みきょう

肉欲の無い恋愛なんて
スパイスの抜けた
ライスカレーの様なものです
                (ミキョウ・イターニャ)

 三人は、黒テーブルを囲んだまま、[会話厳禁]の壁の張紙の前に、なす術もなく黙りこくっているしかなかった。小さな地下一階の薄暗がりの喫茶店には、似つかわしくない程の大きなスピーカーが置かれている。ジャケットを掲示して、うるさい位にジャズを流しているのは、マスターのこだわりでしかなかった。それでいて、マスターはコーヒーを落とす以外は、カウンターの中の席で煙草をくゆらせ、目をつむり小刻みに全身でリズムを刻んでいる。ウエイトレスは、アルバイトと一目で解るほどぞんざいで、まるでそれがファッションでもあるかの様だった。それぞれに思いを馳せ十六才のボクは、「喫茶店とは、ホットコーヒーを飲むのが礼儀なのだ。」と思い込んでいる。それだから味も解らず、ただ熱いコーヒーを無理に飲んでいたのだ。だから、その後の楽しみとして、付いてきたミルクと砂糖を水に溶いておもむろに飲んでいたんだ。カウンターの方で、ウエートレス達がひそひそと目配せをしながら、くすくすと笑っている。いつもの事だ。ボクはうんざりしていた。その事だけじゃない。ありとあらゆる出来事に対してだ。

 髪を無造作に延ばして髭をたくわえた彼は、それに比べると、ジャズの音が渦巻く中で目を閉じ音に心地よく抱かれていた。まるでジャズ喫茶の常連客の様な落ち着き払った姿は、ボクには随分と大人に見えていた。そのうちにグラスに付いていたしずくが流れ落ちて、いつの間にかテーブルの上で小さな水溜りを作っていた。彼女は伏せ目がちな物憂げさで、脆い水溜りを指で壊し始め、黒テーブルの上に《ばか》と書き綴っていた。何を考えているのだろうか。ボクは、気だるさを身にまとった彼女に強く惹かれていた。それと同時に彼と彼女の間に、目には見えない某かの強い結び付きを強く意識し始めていた。それを嫉妬と気付ける程に、その頃のボクはまだ人生を生きてはいなかった。……彼と彼女の存在と、場違いなボクの居心地の悪さと後ろめたさを感じながら尚、ボクの視線は、それなのにいつまでも彼女の指先から離れる事はなかった。ちらちらと盗み見している卑屈なボクは、彼女の指先がなぞった意識への関心を抱いたまま、自虐的な自分を恥ずかしく思っていた。その彼女は、笑うと立って居られなくなって、しゃがみ込んでしまう奇妙な性癖があった。その歩けなくなってしまう性癖を知っても、ボクは彼女を心からあいらしく感じていた。…だから。それで、そのあいらしい姿を見たいが為に、ボクは道化を覚えた。そして関心を惹く為だけに、ボクは道化者の仮面をいくつも持ち歩く様になった。ところがボクの心はその頃から、ボク自身も気付かぬうちに少しづつ分裂し歪み始めていたのだ。いつの間に気付かぬうちにボクにとって、愛の究極は太宰だけとなっていった。

 少なくともボク達の時代の思春期の学生の殆どは、口には出さなかったけれど太宰治の虜になっていたはずなのだと思う。ボクは、あの頃に哀しくて切なく恋焦がれて泣いた。誰にという訳では無く、ただ一人よがりに告白をしているだけで、知らずに自分を守り続けていた。悲劇の主人公を演じる事で、己の真のぶざまさを隠し通し、そんな自分の有り様に泣いていた。それでも時間は、ボク一人を置き去りにして、全ての関係を丸め込んで去って行った。そしてボクときたら、心を伝える術も知らされず、太宰に傾倒している事を内緒にしたまま、ニヒルを気取っていた。
にも関わらず、夜になると感傷的で甘ったるい童話を書いていた。

 月日が過ぎて行く中で、ボクにとって《真実の愛》とは何なのかが、大きな問題となって膨らんでいた。出会う度に、擦れ違う度に、その答えを知っている人を求めていた。気が許し会える友人に、夜更けまで話し合った事も何度もあった。しかし、解った事は、答えは結局自分自身で見付けるしかないということだけだった。ボクにとって、それは精神的なものと、肉体的なものとの葛藤でしかない様にしか思えなかった。プラトニックとバイオレンスを考えれる事は、ぶらんこに乗って大きく漕げば漕ぐ程、接点が瞬時に過ぎてしまう様に不確かな、危うい何かしか見ることは出来なかった。愛があるという肉体関係と、欲望に支配されただけの愛のない肉体関係の存在。[※好きでもない女を抱けるのが男で、それはやはり羨ましい限り。好きな男に女は抱かれたい、それはやはり素直な気持ち。]そんな歌声が流れて来ていた。本当にそうなんだろうか。そして、ボクもそうなんだろうか。戸惑い、迷い、疑い、そして考え続けていた。肉体を欲するが為に愛を囁くのか、愛の結果として肉体的な交わりが生じて来るのか。そこには、生殖行為という観念は入る余地は無かった。その頃のボクは、ネオン街で働いている様々な水商売のホステス嬢と知り合えていた。その付き合いの中で、愚問と知りつつ相談してみると、彼女達の方こそが純真な悩みの答えを持っていた。しかし、そのうちに精神的な愛とは異質な肉体の存在と、技巧のある事を知らされたボクは、世間知らずを厭と言う程気付かされた後、快楽と愛が同義語と知らされ言葉を失って行った。『愛さえあれば、言葉はいらないわよ。』と言われたかと思うと、別の彼女は又、『言葉のない関係に、愛なんて生まれる訳がないじゃない。』そして、『別に愛だとか、恋だとかなんて関係無いのよ、本当に大事なのはお金なのよ。』とも言われた。そして、そう言う彼女達は、想像を絶する人生を経験していたし、必ず唇や肉体を駆使する結末を用意していた。ボクは、その中で答えを求める行き方とは違った、疑問の中でしか生き続けられない哀しさを教わった。そして、答えを待ち続けていたはずのボクの中には、いつしか再び、学生時代の先輩の問いが思い出されていた。

 家族三人で吊橋を渡っていた。すると突然橋が崩れ濁流に飲み込まれ、流されてしまった。自分だけが、偶然に川の中央にあった岩につかまる事ができた。しかし、はたと気付くと、岩を中央に一方にはつれあいが、他方には子供が、同じ距離で流されて行く姿が目に留まった。今なら、どちらか一人を助けられるかも知れない。その時、君なら一体どちらを助けるだろう。
 夜更けにボクは、つれあいを助けると答えた。訳は、子供ならまたつくれるからね。と付け加えて…。先輩は言った。子供を助けないでどうする、子供には未来があるじゃないか。その時、六十年代安保を挫折した先輩を前にして、ボクは、そうなのかと、真実思ったものだ。
 そうさ。その問いには、極限状況を設定した中で[過去の自分]と[現在の自分]と[未来の自分]のいずれかを選択する事で今の自分は究極の困難な状況に対して何をどう考えているのか?を測る単純な心理ゲームに過ぎなかった。なのに…
 だけど本当は、答えなんかどうでも良かったんだ。と今なら思える。あの時は、日々そういった状況を、リアルに意識して生きているかどうかが問題だったんだ。大切なものは、いつもそこにあったはずだった。けれど、今のボクには、この問いが新たな形で詰め寄って来ている。もし家族ではなくて二人の異性だったらどうするつもりなのだと。その迷いの中で、岩から手を離し、再び濁流に飲み込まれ、成り行き任せのどちらも助けようとしない、無責任な愛の無いボクが居た。にも拘わらずそのボクが、寂しくしょげかえって膝を抱えながら、他の人以上に愛という名の肌の温もりを求めているのだ。いつまでも安定しない塞ぎ込んだ放浪するボクの心。求めて止まない欲望をかかえ込んで、今まさに座り込んでいる。いたずらに何度も手首に剃刀を当てた学生時代が、転がり込んで来ている。愛は暖かく、そして優しく美しいはずのものなのに、ボクの欲望は、あの頃に彼女と手をつなぎたかったはずだった。柔らかく唇を合わせたかったはずだった。きつく体を抱き締めたかったはずだった。それを希求し、止む事も出来ず、未だ続けているのだ。否、違う。あれこそ本当は、性行為がしたいだけのものだったのだ。愛そのものに対して、肉体的行為を知ってしまった為に、精神的な行為そのものを未熟なものとして隅へ追いやり、自分の都合だけの、相手を思いやる気持ちの一片もない肉体の略奪行為そのものを、愛と呼ぼうとしているのではないのか。ボクの混乱した思索の中で、そもそも愛とは一体何なのだっただろうか。好意を確認したいが為に、そして、その好意を永続的なものとしての保証が欲しい為だけに、抱き合うのであれば、そんなものの何処に愛があるんだろうか。ボクは、本当に純粋に彼女を愛していると思い続けていた。それなら何故、彼女の肉体を求めたがるのだろうか。本当は、彼女をボクは、心から愛していないのではないだろうか。そんな葛藤の中で、自己嫌悪にしか陥っていけない己の忌まわしき思考。愛の純粋性とは、確認も保証も約束もない互いの肉体を貪り合い、そして傷付けあう所にあるのじゃないだろうか。互いの運命に深くかかわりあう行為、かかわりあえる勇気と真実さ、真剣さと強さ、非常識と不道徳。そして悲劇こそが、真実の愛のように思えてならなくなってきている。愛されなくても愛し続けるひとりよがりと、愛のために自分の命さえ捨ててしまう愚かさ。嫌われて捨てられて、忘れ去られ裏切られ傷付け合っても愛し続ける行為にこそ、本当の愛が見えて来るのだ。
 
 『愛したい。愛せない。……』それはまさに、かつて、二十一才の時に勝手に裏切られたと思い込み、自殺未遂事件を起こしてしまったボクの感覚の想起なのかも知れない。その繰り返しの渦の中でボクは、彼女を恨み、人間を嫌悪し、ボク自身を嫌悪する。きたなく、汚れた歪んだボクの愛。いや、ボク自身。それが虚ろな目をして部屋の隅で、再び広くて大きな海を眺めている。
 
 『バレンタイン・デイ』と云う唄は、少女へ告白をする少年が、バレンタイン・デイに、事もあろうに学校の昼休み勇気を持って、クラスのみんなの前で少女にチョコレートを渡すと、彼女から「チョコレートは女が渡すものよ。」とたしなめられ、クラス中の笑われ者になってしまった。という恋の悲劇を歌っているものだった。ボクは、今もってその唄のままの告白しか出来ないでいる様にしか思えない。デパートの化粧品売り場を幾つも回って、店員さんから耳にたこが出来る位に、厭と言うほど『今年の流行色はなにがし。』と蘊蓄を聞かされながら、何日もかけて歩きながら、又は宝飾店で貴金属を眺めながら、『彼女に贈り物ですか。』と声を掛けられたりする事で、ひとりよがりな、決して相手に伝わる事のない無駄で愚かな行為にしか、純粋な愛を感じる事が出来ないボクがそこにいる。そして全ての想いの結晶として選んだ口紅に、無力で勝手な愛を託すしかないと諦めてしまうボクがいる。相手の彼女自身がどう感じて何を思おうと、仕方ないと諦めてしまうボクの愚かさ、それも一番大切な日から、どんどんとかけ離れて行く中で、「このまま逢わない方が彼女にとって幸せなのかも知れない。」なんて一人で決め付けて、その事に縛られては苦しみ、悲しくて切なくて「いっそ死んだ方がましだ。」と深い心の泥沼に沈んで行くのだ。

 そもそも愛なんかには祝福という形式や、幸せの約束や、愛し続ける保証なんか決してないものなんだ。だから愛イコール結婚なんて証明の上に成り立つ肉体の交わりは、虚しい習慣となってしまう。それであれば、彼女の裸体を思い浮かべる想像的強姦の方が愛に近いのではないだろうか。

 『どうしようもなく好きなんだ。』という気持ちから始まる素朴な幻想的で、馬鹿みたいな感性から出発する、もろくて、あやうい想像こそが本当の様に思えてくる。哀しみが優しさを、切なさがいとおしさを、やる瀬なさが慈しみを…。たくさんの心の動きが、心を豊かにしてくれるはずだという信念のなかで『最後に一人だけを選びなさい。』と言われながら、二人を得ようとするボクの罪に、いつ天罰が下されるのだろう。脅えながら、けがれたボクは答えを待っている。相手からの返事を、それでも待っている。現実感の遠のきを感じながら、それでも死なないで、中途半端な愛にぶら下がりながら、哀しみに泣きながらじっと耐える事が、格好良い事だと虚勢を張って暮らしている。強く結ばれるはずだったのに、最後は一人残されてぶざまな笑い者として、道化者の仮面だけを被り続けるしかないのかも知れない。生きてる屍と呼ばれ、太宰にもなれずに生きるしかないボクの暮らし。

 その全ての始まりは、うるさい位のジャズ喫茶での偶然の出逢いからだった。                           
                   (※佐々木好の歌より抜粋)


散文(批評随筆小説等) 短編「The First Encounter」 Copyright 板谷みきょう 2007-04-18 01:20:40
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